16日から過去問期のはずなのに、まだ始動してない。
かといって下準備に時間がかかっていたというわけでもなく。
皆さんが勉強がんばってる中、俺はグダグダ寝たり遊んだりが中心の日々でした。
強迫的快楽主義に基づき、司法試験を楽しみ尽くすために司法試験受験生やってる俺の弱点。
司法試験の勉強と両立しえない、より大きな快楽を認識してしまうと、そちらを優先してしまうこと。
仕方ないので、その快楽を飽きるまで満喫する。
すると、相対的に司法試験の勉強の方が楽しそうに感じてくるから不思議なものだ。快楽相対性理論。
で、その波に乗るため、他のより大きな快楽を認識しにくい環境作りをする。生活リズム調整とか自習室行きとか。
かつ、短期で確実に快楽・達成感を得られるような勉強をする。
…というのが理想なんだけど、なかなか難しいよね。人間だもの。
でも、こういうなめた姿勢をとっているメリットもあるといえばあるかも、とも思ったり。←また自己正当化
司法試験や勉強というものを特別視しないことで、司法試験合格という目的を達成するための手段を、より柔軟に考えることができているような。
「すごい試験に挑んでいるんだ」とか「何か高尚なことをしているんだ」とか思っているような人たちは、何だか手段選択がカタいと思わずにはいられない。
もちろん、そういう人たちも気合とか陶酔とか、うまく使えばすごい戦力になる武器を持ってると思うんだけど。
目的論原理主義からすると、ある目的を設定したら、その目的のみ絶対的となり、他の全てはその目的に奉仕する手段として相対化される。
そこでは、勉強も遊びも、司法試験も犯罪も一旦同列になる。
ただ、その絶対的な目的を達成するのに役立つ度合いを唯一の基準として価値的な序列ができる。
例えば、今すぐ人を喜ばせるという目的からすると、一緒に遊んだり音楽を演奏したりする方が、司法試験の勉強より価値が上になるだろう。
だから、前にも書いたけど、目的の設定が非常に重要。
それ次第で世界が変わってくる。
また、ある目的はより上位の目的のための手段でもある。
で、俺は司法試験を楽しみ尽くすという目的を設定したわけだが、その中には当然、合格したときの快楽を味わい尽くすということも含まれるわけで。
つまり、遊んでばかりいないで勉強しろと。
今日は生活リズム調整のために徹夜しているせいか、久々に(?)電波日記になってしもた。
かといって下準備に時間がかかっていたというわけでもなく。
皆さんが勉強がんばってる中、俺はグダグダ寝たり遊んだりが中心の日々でした。
強迫的快楽主義に基づき、司法試験を楽しみ尽くすために司法試験受験生やってる俺の弱点。
司法試験の勉強と両立しえない、より大きな快楽を認識してしまうと、そちらを優先してしまうこと。
仕方ないので、その快楽を飽きるまで満喫する。
すると、相対的に司法試験の勉強の方が楽しそうに感じてくるから不思議なものだ。快楽相対性理論。
で、その波に乗るため、他のより大きな快楽を認識しにくい環境作りをする。生活リズム調整とか自習室行きとか。
かつ、短期で確実に快楽・達成感を得られるような勉強をする。
…というのが理想なんだけど、なかなか難しいよね。人間だもの。
でも、こういうなめた姿勢をとっているメリットもあるといえばあるかも、とも思ったり。←また自己正当化
司法試験や勉強というものを特別視しないことで、司法試験合格という目的を達成するための手段を、より柔軟に考えることができているような。
「すごい試験に挑んでいるんだ」とか「何か高尚なことをしているんだ」とか思っているような人たちは、何だか手段選択がカタいと思わずにはいられない。
もちろん、そういう人たちも気合とか陶酔とか、うまく使えばすごい戦力になる武器を持ってると思うんだけど。
目的論原理主義からすると、ある目的を設定したら、その目的のみ絶対的となり、他の全てはその目的に奉仕する手段として相対化される。
そこでは、勉強も遊びも、司法試験も犯罪も一旦同列になる。
ただ、その絶対的な目的を達成するのに役立つ度合いを唯一の基準として価値的な序列ができる。
例えば、今すぐ人を喜ばせるという目的からすると、一緒に遊んだり音楽を演奏したりする方が、司法試験の勉強より価値が上になるだろう。
だから、前にも書いたけど、目的の設定が非常に重要。
それ次第で世界が変わってくる。
また、ある目的はより上位の目的のための手段でもある。
で、俺は司法試験を楽しみ尽くすという目的を設定したわけだが、その中には当然、合格したときの快楽を味わい尽くすということも含まれるわけで。
つまり、遊んでばかりいないで勉強しろと。
今日は生活リズム調整のために徹夜しているせいか、久々に(?)電波日記になってしもた。