方法論批判シリーズ第2弾。
どうも最近、他者の方法論を批判したくなってしまうのは、弁護修習から民裁修習に移って、ケンカができなくなったからかなあ。弁護士の仕事の大きな魅力の一つとして、合法的に大ゲンカができるということが挙げられると思うんだ。
一応、既存の方法論を批判した上でさらに発展させたい、というのが真意ですが。

今回は、
「実務では~だ。司法試験は、実務家登用試験だ。だから、司法試験でも…だ。」
といったニュアンスの言説について書きたい。

こういった言説について、まず違和感があるのは、
「司法試験は、実務家登用試験だ。」
という点。
これは、適切な捉え方とはいえないと思う。
なぜなら、司法試験に合格しても、修習を経て、二回試験に合格しなければ、法律実務家になれないからだ。
つまり、こういう観点から司法試験を見るときは、
「司法(修習生採用)試験」
と捉えるのが、適切だと思う。

じゃあ、司法試験を、「実務家登用試験」ではなく「司法(修習生採用)試験」と捉え直すことで何が変わるのかというと、よく分からない。笑
なぜなら、「実務・修習では~だ。だから、司法試験でも…だ。」といった立論の仕方にも疑問があるからだ。
司法試験合格を第一目的とするならば、「実務・修習における知識や技などが、司法試験にどれだけ通用するか」が問題だと思うのだが、これについての説明がない。
どちらかというと、「司法試験でそんなことをやっていては、実務・修習で通用しない」みたいなことから方法論を組み立てているように聞こえることもあるけど、これが司法試験合格を目的とする方法論ならば、論理的におかしい。
当然ながら、司法試験合格を第一目的とするならば、司法試験が主、実務・修習が従。
実務・修習の方を重く見てしまうと、司法試験というアンバランスな捉え方になってしまう…というのは、またGショックガイダンスの使いまわしか。笑

しかし、実務・修習に足場を置いて司法試験を語りたくなってしまう気持ちは、非常によく分かる。というか、最近、試験フェチの俺でさえ、こういう論調で語ってしまうことがあるので、そういう自分自身に対してもケンカを売って、冷静に考え直してみようと思ったわけです。

で、刑裁→弁護→民裁修習中という時点で考え直してみると、結局、「司法試験でやったことが、修習でも役に立っている」という程度のことが多いのではないかと。
たとえば、判例の射程を考えるという実務的な方法論を、司法試験の論文問題にそのまま使うという方法論がある。これ、受験生時代にちょっとやろうとして思ったんだけど、費用対効果が悪すぎるんだよね。
でも、判例の射程を考えるというのは、実務修習では、それなりにやる。
そこで俺が思ったのは、これは「旧」試論文の比較問題と似た思考パターンだな、ということ。共通点と相違点を分析するという、あの思考パターンと似ていると思う。
判例の射程を考えるという方法論の、司法試験における有効性は、せいぜいこの程度なんじゃないか。
全く根拠はないけど、「司法(修習生採用)試験」では判例の射程を考える下地となる能力があるかどうかを試し、修習でそれを実際にやらせるという方が、教育的には自然な感じがする。
やはり、修習という教育過程があることを無視して、実務的な方法論を司法試験にそのまま持ってくるのは、無理があるように思う。

ただ、新試はやはり状況が変わってくる可能性が高い。
今のところ、「旧」試より大幅に増えた問題文の情報の処理、答案用紙の使い方、訴状や準備書面を書く感覚、要件事実・事実認定など、「旧」試よりも、修習におけるノウハウの有効性が高まったと思う。
そのため、実務・修習から導き出された方法論が増えてくるだろうけど、それが新試でどの程度効果があるものなのか、慎重に見極めるべきだということには変わりがない。
司法試験合格に軸足を置いて、そのために必要な限度で、実務・修習ノウハウを採り入れてください。