以前、こんなことを書いた。
「法律家というのは、かなり重い方の仕事だと思うので、何か強めの欲望みたいなものがないとやっていけないと思うんだよね。
そこら辺、もう一度、自分の人生、法律家になることで本当に満足できるのか、受験生時代に考えてみることは何よりも重要だったんじゃないかなあ、と思う。」

今でも、そう間違ったことを書いているとは思わないけど、視野が狭いと感じる。
法律家になることしか考えていない。
修習生たるもの、そういうもんだと思い込んでいたから。
いや、基本的にはそういうもんだろうけどさ。
そして、弁護士になるならば、就職しなければならないと思い込んでいた。
いきなり独立するのは無理だろう、という不安から。

司法試験に合格した後、こういった固定観念にからめとられてしまい、窮屈極まりなかった。

でも、弁護修習と並行していろいろ考えていくうちに、見方が変わった。
司法試験合格は、法律家の道や弁護士事務所への就職の道を強いるものではなく、自由の翼なんだ(陳腐な表現だけど、そういう映像が目に浮かんでしまったんだから仕方ない)、と。
他の仕事をやる際には、強力な売りにもできるだろうし、弁護士をやる気になったら、弁護士会費が払えれば、いつでもできなくはない。
弁護士の仕事も、法律関係の仕事に限られているわけではない。

もともとバンドでプロを目指すという、いわばアウトローだった自分にとって、司法試験を受けることは社会復帰のための一つの手段でもあったからか、「弁護士は自由だから憧れる」という感覚はいまいち分からなかったんだが、こういうことなのかな、と。

だから、今は、司法試験に合格すること自体によって、個人的な達成感だけでなく、社会的な価値も得られると思っている。今後合格者が増えていっても、売り方次第で、希少価値をキープできるように見える。
だから、受験生時代に、法律家としての将来像を描けなくても、法律家になりたいという気持ちがあまりなくても、司法試験を受験する価値がないわけではない、と今は思う。
もちろん、司法試験受験によって犠牲にするものも大きいから、視野を広く持って、計算をすることが必要だけど。
でも、だいたいその計算結果って、身体と心が分かっているんだよね。

がんばろう。