「ある言葉の本当の意味が理解できていなくても、その言葉を使うことはできる」ことから、少なくとも
「知識の“理解”≠知識が使える」
ということはいえるんじゃないの~と。
これ、NOAさんの受け売りですが…ガイダンスでなかなかこのネタを使う話の流れにならない(来てくれた皆さんの反応を見ながら、伝わりやすそうな言葉・話を選んでます)ので、とりあえずここで使わせてもらいました。

たとえば、「やぶさかでない」という言葉。
漢字で書くと「吝かでない」になるとか、「吝か」というのは吝嗇(りんしょく)=ケチだということとか、その由来は1000年以上遡って…とかそういうのが、一般的な“理解”のイメージだと思う。

でも、そういう“理解”がなくても、「やぶさかでない」は使えてしまう。少なくとも僕は、上記の“理解”なく使ってました。

それどころか、「やぶさかでない」は、現代では消極的な「嫌じゃない」という文脈で使われることが多いけど、元々はそうじゃなくて、積極的に「努力を惜しまない」という使い方だったみたい。こういう話はよく聞くよね~「情けは人のためならず」とか。

とすると、実は、知識の使い方から、記憶すべき定義・“理解”が定まってくるんじゃないの?
知識って、使ってなんぼのもんじゃないの?
ならば、法的知識だって、使わないと、本当の記憶・“理解”なんてできないんじゃないの?
あ、これってちょっとポストモダン思想的?

まあ、“理解”って本当に曖昧な多義語(cf.「『理解』の危険性 」「『理解』とは何か 」)なので、知識の使い方という意味で“理解”という語を使うなら、試験合格のためには問題ないと思うけどね。
教える立場としては、“理解”という言葉は、やっぱできる限り使いたくないなあ。