以下、全く個人的な見解です。
時々、さほど勉強も していないのに、いつも上位にいるように見えるお子さんもおられます。確かに、受験に限らずスポーツでもビジネスでも、何事においても、そうだと思うのですが、特に苦労せずに、さらっとこなしてしまう方がおられます。
少なくとも、傍から見れば、そういう風に見えます。
そんな時、逆立ちしても、とてもこの人にはかないそうもない、そういう自覚が生まれることがあります。地頭がいいからと思うようなものですね。
もっとも、よく考えれば、多くの場合、何もしないのにできると言うことはあり得ない、ということも理解しています。ですから、おそらく、どこかで大変な努力をしているはずだという事実にも気がつくと思います。
しかし、自分も苦しい努力をしているのに、それにもかかわらず、相手の方が何枚も上手だったりするので、とても自分にはこれ以上はできないと、感じる訳ではないでしょうか。つまり、最後は、自分のかけた労力が苦しいかどうかの感覚的な判断で、比較してしまっているように思います。
何でもできる方は、実は、努力していないのではなくて、努力が習慣・生活の一部になっているため、目立たないだけなのではないかと思います。あるいは、好きなことなので、あえて努力しているとは思っていない、のかもしれません。できるお子さんは、これ見よがしにテキストを取り出して、今から勉強しますと宣言しなくても、実は普段の生活で、いつも考えていたりするように思います。でも、努力しているつもりはない。だから、良く観察していなければ、そんなに勉強していないのに、と勘違いしてしまう。
ならば、この差はどこから来るかという と、それは集中力なのかなと思います。同じ時間をかけても集中力の差によって結果に差が出てくることはあり得ると思います。勉強している割には、と思う方は一度集中度の確認を行った方が良いのかも知れません。塾に行っているから集中しているとは限りません。自宅で時間を計って課題をこなすだけでも、集中度がわかります。初めのうちは、算国はこのやり方では無理が有るかも知れませんが、記憶系であれば、自分でもこなせるはずです。
有る程度までは、普通の努力によって何とかなるかも知れません。しかし、それ以上になると、イチロー選手にしても室伏選手にしても、大変な努力の上に今の状態が有ることを皆さん認識していると思います。彼らの集中力は説明するまでもないでしょう。
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さて、一を聞いて十を知るとは、孔子が子貢と顔回を比較して尋ねた時の、子貢の顔回に対する評価の回答であり、孔子も同様に自らも顔回には及ばないと述べられています。この文は、非常に優れた人を喩える言葉としては有名ですが、誰に対して述べるつもりだったのか、その立場によって解釈が微妙に変化するように思います。
十を知ると喩えられた顔回は、知ることにおいては孔子以上であると言わせながら、孔子以上になることがなかったのは何故か。知ることにおいて顔回に劣ることを、わざわざ子貢に質問し、私も実はそうなんだと子貢に明かした孔子が、子貢に考えさせたかったこととは何か。
論語は短い文のつながりなので、多くを解釈することは、推測以上の何ものでもなくなってしまう恐れがありますが、わざわざ孔子が述べているのには、それなりの理由があるはずでしょう。一を聞いて十を知るという能力以上に、何が重要なのか、子貢と我々を同じレベルで比較するのは不遜でしょうが、研鑽努力することが必要であると言いたかったのではないでしょうか。
とすれば、努力が正しい方向に向いているかどうか、孔子のように、それを確認するのがご両親の役割かと。しかし、何が正しいかなんて、なかなか難しくて答えようがないですよね・・・
↓受験生ガンバレ、地道にやればきっとできる。
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時々、さほど勉強も していないのに、いつも上位にいるように見えるお子さんもおられます。確かに、受験に限らずスポーツでもビジネスでも、何事においても、そうだと思うのですが、特に苦労せずに、さらっとこなしてしまう方がおられます。
少なくとも、傍から見れば、そういう風に見えます。
そんな時、逆立ちしても、とてもこの人にはかないそうもない、そういう自覚が生まれることがあります。地頭がいいからと思うようなものですね。
もっとも、よく考えれば、多くの場合、何もしないのにできると言うことはあり得ない、ということも理解しています。ですから、おそらく、どこかで大変な努力をしているはずだという事実にも気がつくと思います。
しかし、自分も苦しい努力をしているのに、それにもかかわらず、相手の方が何枚も上手だったりするので、とても自分にはこれ以上はできないと、感じる訳ではないでしょうか。つまり、最後は、自分のかけた労力が苦しいかどうかの感覚的な判断で、比較してしまっているように思います。
何でもできる方は、実は、努力していないのではなくて、努力が習慣・生活の一部になっているため、目立たないだけなのではないかと思います。あるいは、好きなことなので、あえて努力しているとは思っていない、のかもしれません。できるお子さんは、これ見よがしにテキストを取り出して、今から勉強しますと宣言しなくても、実は普段の生活で、いつも考えていたりするように思います。でも、努力しているつもりはない。だから、良く観察していなければ、そんなに勉強していないのに、と勘違いしてしまう。
ならば、この差はどこから来るかという と、それは集中力なのかなと思います。同じ時間をかけても集中力の差によって結果に差が出てくることはあり得ると思います。勉強している割には、と思う方は一度集中度の確認を行った方が良いのかも知れません。塾に行っているから集中しているとは限りません。自宅で時間を計って課題をこなすだけでも、集中度がわかります。初めのうちは、算国はこのやり方では無理が有るかも知れませんが、記憶系であれば、自分でもこなせるはずです。
有る程度までは、普通の努力によって何とかなるかも知れません。しかし、それ以上になると、イチロー選手にしても室伏選手にしても、大変な努力の上に今の状態が有ることを皆さん認識していると思います。彼らの集中力は説明するまでもないでしょう。
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*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*☆さて、一を聞いて十を知るとは、孔子が子貢と顔回を比較して尋ねた時の、子貢の顔回に対する評価の回答であり、孔子も同様に自らも顔回には及ばないと述べられています。この文は、非常に優れた人を喩える言葉としては有名ですが、誰に対して述べるつもりだったのか、その立場によって解釈が微妙に変化するように思います。
十を知ると喩えられた顔回は、知ることにおいては孔子以上であると言わせながら、孔子以上になることがなかったのは何故か。知ることにおいて顔回に劣ることを、わざわざ子貢に質問し、私も実はそうなんだと子貢に明かした孔子が、子貢に考えさせたかったこととは何か。
論語は短い文のつながりなので、多くを解釈することは、推測以上の何ものでもなくなってしまう恐れがありますが、わざわざ孔子が述べているのには、それなりの理由があるはずでしょう。一を聞いて十を知るという能力以上に、何が重要なのか、子貢と我々を同じレベルで比較するのは不遜でしょうが、研鑽努力することが必要であると言いたかったのではないでしょうか。
とすれば、努力が正しい方向に向いているかどうか、孔子のように、それを確認するのがご両親の役割かと。しかし、何が正しいかなんて、なかなか難しくて答えようがないですよね・・・
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あいつか・・・
購入していたのを、これまた、偶然サラダにかけて食べさせられたところ、痛みがす~っと引いて行きました。