ノックの後

俺の名を呼んで

少し間を置き

“ごめんね、開けるよ“


カチャっと少しだけ開いた扉


もう一度...


“翔君“



俺はこの声を知っている

知っているはずなのに

思い出せない



どうしても返事が出来ない


無視したいんじゃないのに




⭐︎




風太が死んだのは

あの人のせいなんかじゃない

分かってる...


救急車の中で風太はもう...息をしていなかった。


処置室に入った風太を待つ間、走馬灯のように思い出が駆け巡る裏側で...何か大切なものが消えていくような感覚...


まるで...頭の中が綺麗に真っ二つに分かれて別々の何かに支配され...右と左に分かれた脳内で、もう風太は戻らないと片側で覚悟した頃、説明に来たあの人の顔を見て...どこかで会った事があると思った...そう、最初にストレッチャーを迎え入れた横顔も。

それなのに...思い出せない...

誰だったのか...とても、大切な人のような気がしていた...のに

いくら考えても思い出せない

もう片側の脳から抜き取られたのは...多分、この人の事...?


表情を変える事なく言葉を並べる目の前の人の胸ぐらを掴み、汚い言葉でなじり...引き倒して殴り続けた


なんの抵抗もせず

俺にされるがままで...


それが余計にムカついた



すかした顔を


メチャクチャにしてやろうと...



俺は...完全に理性を失い

八つ当たりしただけだ...


このまま殴り続ければ

この人を破壊してしまう

そんな事になれば俺は終わりだ


それで構わないと思った


何もかも失った俺には

もう...怖いものなんて...なかったから


それなのに


今...俺は...あの人が用意した飯を食っているだなんて...



情けなくて...叫びたくなる...



食いかけのざる蕎麦をトレーごと

思い切り床に投げ落とした


流れる液体が


あの日


風太が溺れた血溜まりに見えて


恐怖に手を引かれ家を飛び出した...