ワーッ!年賀状書かなきゃ!
今日は、年賀郵便特別扱い開始の日と観光バス記念日です。
【活用場面】
産みの苦しみ!郵便システム創設の苦労!黒船の影響!
前島密は、郵便のしくみを作った人です。
前島密は、小さいころは医者になろうと考えて、江戸に出て医者の家に薬室生として住みこみ、薬の調合や病人の世話の手伝いなどをしながら、医学の勉強に励んでいましたが、18歳の時、アメリカ海軍のペリー提督の軍艦を浦賀で見た密は感動し、じっとしていられなくなり、国を守る方法を考えなければならないと考えたのです。
それからの密は、旅に出たり、海軍操練所で勉強したり、函館開成所で航海術を学にんだりしていましたが、桜田門外の変やロシアの軍艦が来航等があり、幕府のふがいなさに日本のこれからがますます心配になりました。
密はこのあと、長崎で英語を学んだり、鹿児島の開成学校で教えを受けたりしていました。薩摩藩では、西郷隆盛や大久保利通らと話をすることもできました。しかしここで密は、薩摩藩の倒幕計画を聞き、日本の国があぶなくなると思い、それを幕府に知らせるために1年ほどで江戸に帰り、幕府の開成所の数学の先生になりましたが、この年大政が奉還されました。
明治2年、密は新しい政府の民部省に勤めることになり、しばらくして密は、駅逓司という役所の駅逓権正を命じられました。
ある日、一通の書類がまわってきました。それは、東京~京都の間で政府の手紙を運ぶ金額について書いてありました。これを見て、密はこう考えました。
「しばらくは、手紙の通信は東京から大阪までの東海道だけにしよう。そして毎日一回、東京と大阪から手紙を送り出すことにする。それには、政府のものだけでなく、民間の手紙も一緒に送り出す。そうすれば、東海道沿いの人たちも喜んで利用するだろう。そして手紙を送る金額は、政府も民間も同じにする。そうすれば、月々の収入は1,500両を超えることは確かである。」
そう思いついた密は、その日からほとんど眠らずにこの考えをまとめました。いろいろなことを調べたり計画を立てたりしました。決めなければならないことがいくつかありました。まず、「郵便」や「切手」「ポスト」などの名前を決めました。次に、東京と大阪間の郵便物の発着時刻を決めました。それから、郵便の料金をどうするか考えました。
その翌年、密は、進んだ郵便制度の仕組みを自分の目で確かめるためにイギリスへ行き、たくさんのことを学んで帰ってきました。
イギリスから帰ってくると、これまでの飛脚の制度を廃止しました。その後郵便の仕事は長崎まで広げられました。
さらに、密にはどうしても解決したいことがありました。それは外国郵便のことです。それまで日本は、外国との郵便の取り決めをしていなかったので、せっかく日本に届いた手紙を本国に送り返すことしかできませんでした。密はこれが悔しくて仕方ありませんでした。
密はねばり強く努力し、明治8年、ついにアメリカとの郵便の取り決めがまとまりました。日本の人たちが、日本の切手をはって外国へ手紙を出すことができるようになったのです。外国郵便の開業式の中で、密は「わが菊花、今日よりその秀麗なる光輝を世界の人民に映射せん。」とよろこびの言葉をのべました。
役所をやめることになった密は、東京専門学校(=今の早稲田大学)の校長になったり、もう一度役所に戻って郵便をさらに活発にする仕事をしたりしました。
そして、大正8年4月27日、84歳で亡くなりました。
前島密が苦労して作り上げた郵便のシステムです。早めに年賀状を出しましょう!
前島密の苦労を伝える為に今回は長めです!
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シャクルトンの素晴らしい統率!
【活用場面】
究極の統率!命の大事さ!
アーネスト・シャクルトンはアイルランド生まれの探検家であり、南極大陸横 断という目標を達成しなかったが、奇跡的な統率者としてその名を残した。
シャクルトンは、南極大陸横断を目標にかかげながら、南極大陸にたどりつく ことさえできなかった。目的を達するという意味では、そのはるか手前で失敗し たことになる。
ところがその失敗から、人類の成しとげた偉業のなかでもとりわけ心を打つ奇 跡が産まれた。
エンデュアランス号の乗組員28名が船を失い、氷の世界を一年近くさまよっ た後に、一人も欠けることなく生還した事実は、人間にこれほどの力があったの かと、心の奥にずっしりとした感動を呼ぶ。
エンデュアランス号の奇跡は、シャクルトンとその一行が心をひとつにして、 奇跡を自分たちの力で勝ち取った物である。
それはまさに船の名前が暗示するように「エンデュアランス(不屈の忍耐)」 によって、希望の持ちようがない状況のなかで希望を持ち続けたこと、自分の野 性を信じたこと、仲間への忠誠、そして神秘体験、シャクルトンの体験のひとつ ひとつが「生きのびろ! 生きのびる力を人間は持っている」と伝えてくれる。 この本は、決して諦めず、生きのびたいと願う人々への応援歌である。
この記事では伝えられない感動があります。是非、ご一読下さいm(_ _)m
梅太郎のビタミン発見!
今日は、正月事始め、双子の日にビタミンの日だそうです。
【活用場面】
天網恢々疎にして漏らさず!真実は自ずから明かされる。
明治末期まで、脚気の原因がビタミンB1不足だという事がわかっていませんでしたので(ビタミンの存在すらわかっていませんでした)、健康被害を訴える人が多かったのです。
脚気とは、神経に障害をきたす病気で、徳川家光もこの病気で命を落としたと言われています。
脚気をめぐり世界中で研究が進められていました。ドイツでは「伝染病ではないか?」と主張!一方のイギリスでは「栄養問題ではないか?」という対立構図になっていました。
日本でも意見が大きく分かれます。日本の海軍は栄養問題を主張!一方、日本の陸軍は伝染病を主張し両者は対立するのです。
1910年、鈴木梅太郎が米のヌカからビタミンB1を発見しアベリ酸(後にオリザニン)と名付けます。しかし、世界に論文を発表する際、「新しい栄養素だ」という言葉を訳されなかった為、「オリザニン」は世界から認められませんでした。
また、東京帝国大学(東大)医学部でも、脚気は伝染病が原因ではないか?とする説が多く、同じ東大出身の鈴木梅太郎に対しての風当たりが強かったのです。
さらに、ある医学者は「農学者が何を言うか、糠が効くのなら小便でも効くだろう」と鈴木を非難するのでした。
東大医学部長がノーベル賞の候補者に鈴木ではなく、イギリスの「ホプキンス」を薦めたのは、こういう背景があったのです。
ちなみに、森鴎外は鈴木梅太郎が脚気とオリザニンの因果関係を証明したのにもかかわらず、死ぬまで伝染病説を貫いたそうです。
ビタミンB1の発見は、ノーベル賞級の発見です。
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