親の意見が絶対で自分の意見を言う余地がない家庭で育つとどうなるか。
自分の意見を無視し続けるので、そのうち自分の意見がわからなくなる。
それは自分の本心がわからなくなる、ということ。
そこのところになんとなく気づいた人は、何かが違うと思うけど上手く言語化出来ないし、どうにかしたいけどどうにもできなくてモヤモヤする。
今まで自分の本当の気持ちについてなんて考えたこともなかったから、今となってはそれの探し方もわからない。
で、ここから先が今日言いたいこと。
誰かの意見をただ聞くしかない環境で育ってモヤモヤしてる人、「そういう環境で育ったせいでこうなってしまった」と環境を恨んでいるばかりでは好転しない。
面白いことに(というと不謹慎かもだけど)、こういう人は大人になっても自然とそういう環境に自ら身を置く。
自己中心的な恋人や夫、自分の意見を曲げない姑や舅、男尊女卑で年功序列なTHE昭和な体質の会社などなど。
それは無意識に「人の意見を聞いてる方が楽」だと思ってるから。
その波動が「自分の意見を押し付ける人」を引き寄せている。
・・・と言うときつく聞こえるかもしれないけど、でも人間は「いつもの」が好きな生き物なのでしょうがないことではあるのよ。
慣れたものを選ぶのよ、その方が楽だから。
楽ってことは省エネってことで、生物が生きていくのには賢い戦略ではあるから。
でも生物全般ではそうであっても、私たちは人間なので。
省エネで楽を最優先にしてるうちは、満たされたり歓びを感じたりはしないのよ。
だから、これまでの自分に違和感を感じて変えたいと思ったときは、そこそこ動かないとあかんのよ。
何かのせいにしてるうちは何も進まんし、待ってたって魔法使いが突然現れて望む通りに世界を変えてくれるなんてことはないのよ。
この世では、ほんまに自分でしか自分を救えんの。
そして自分で自分を救うためのエネルギーって、自分を愛することから生まれるんよ。
自分を愛するってのは、自分の好き嫌いを知って自分の毎日を好きで満たしていくこと。
いい感じに心が動く生活をすること。
自分自身を(体も心も)快適な状態にメンテナンスしておくこと。
なぜか人間は自分自身と向き合うというと難しく考える。
でもさ自分自身のことをあなたの大事な「小さな友だち」みたいに考えたらどうかな?
食べるものひとつでも、その大事な小さな友だちが口にするものとして今の食事ってふさわしいかな?
付き合う人たちも、愚痴や悪口ばかりの人、人を傷つけるような人の中に置いておきたいと思うかな?
みたいな感じよ。
こんな風に自分のことを自分とは違う存在として見てみるのが「客観視」であるし「距離をとる」ことかなと思ってるのよ。
若くしてこのあたりのことに気づいた人はラッキーで羨ましいぐらいやし、私と同年代(50代)かそれ以上の人でも人生が終わる前に気づいて動けて良かったやん! って思うんよ。
毒親とかややこしい家庭環境で育った人の中には、そういう負荷をかけることでしか開かない大輪の花が存在してるかもしれない。
どうせしんどい目に遭ってきたんなら、思いっきり素敵な花を咲かせたいよね!
逆説的には、その花を咲かせるためのしんどい目であったはずだもんね!
っていうのが、私の持論。
みたいな話をすることも多いセッション。
来月分、受付中です。