信長塀を拝んで 麒麟がくるの予習した” | 白木蓮のいとおかし日記  夏は夜

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木蓮のいとおかし日記   名古屋歴女編
 桶狭間の戦いからの千秋季忠に興味をもったので チェック
 なぜ 熱田神宮の大宮司が戦いに❔
 
平安時代  熱田神宮の大宮司  季範
娘は 源義朝に嫁いで  源頼朝をうんでいる由良御前がいたりする
武家と 深く関わった家柄
 
 尾張に千秋氏は、守護代の一族として急速に勢力をつけてきた織田信秀と結び付く。世は戦国時代、実力がものをいう世界、熱田宮の「大宮司」としての特殊性を認められていても、世俗的には尾張の国人の一人に過ぎなかった。かくして千秋氏は信秀の指揮のもとに各所での戦に駆り出される。天文十三年、当時の大宮司千秋季光は、稲葉山城攻めの時に戦死。
 
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いに参加。佐々政次と共に鷲津砦丸根砦を落とした今川義元軍と対峙していたが、信長が善照寺砦に到着したのを見て義元本隊に攻撃を仕掛け、政次ともども討ち死に
 季忠は、桶狭間の戦いのとき、今川軍の先鉾隊に戦いを挑んで戦死してしまった。

 季忠の嫡子、のちの季信は、この時母胎内にいた。母は実家の浅井氏に戻って、季信を生み、育てたという。季信は十五歳で、初めて信長に謁した。そして、「これからは軍事にたずさわることを止め、大宮司に専念するようにせよ」と言われたという
 
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sensyu.html
 
 

信長塀

 永禄三年(一五六〇年)織田信長が桶狭間出陣の際、当神宮に願文を奉し、大勝したので、その御礼として奉納した塀である。土と石灰を油で練り固め、瓦を多数積み重ねている。三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並び、日本三大土塀の一つといわれている。

 

1560年(永禄3年)に織田信長が「桶狭間の戦い」の前に戦勝を祈願したことでも有名で、

見事に勝利を収めた信長は築地塀(信長塀)を奉納しています
でも  ボランティアの話では 
親子二代 織田家のために戦死させてしまった
 大宮司 千秋季忠への 感謝と 熱田神宮 宮司がいない詫びと 
もう戦に来なくていいよ 

 護りますとの 意志だそうです 

 

 

 

 

  
 

 
本殿

 

あやや 宮きしめんは いずこに?
宝物殿 東  裏側に 移動してる (*^-^*) 

 
メニューふえてる
 
で なんの工事?
 剣の宝庫  草薙館ができるみたい
 令和3年  秋 予定だそうです 

 

 
熱田神宮には  宝剣わんさか
 
 
 

  大楠  きょうは  みーさまには あえなかったわ
 いますとも 色の薄い青大将がね
 

 

 
 
佐々正次に関しては  星崎にて 信長さまを 待ち 
弟 息子にと 繁栄をねがい 一番先鋒と なったらしいです
弟が 織田家の重鎮 佐々成政です
麒麟がくるでは 中島砦あたりで (木蓮は有松村の桶狭間と思いますが) 
今川に大敗した武将 
そのおかげ? 義元は ご機嫌になり 油断したとな 
 
 
      私(佐々政次)が命を捨てて掛かれば、
今日の合戦には必ず勝つことが出来ましょう。
      今日の戦は天下分け目の合戦です。
      天下を治め下さい。弟(成政)と私の息子(清蔵)を宜しくお願い致します。
      我々は東へ向かい、今川義元の本陣へ乱入します。
      殿(信長)は脇槍に向かわれ、
鉄砲も弓も捨ててただただ一途に義元に打ちかかられるが
      よろしいでしょう。と  言い残したそうな
 
     泣けるわー ( ;∀;)