木蓮のいとおかし日記
大高 鷲津砦 & 長寿寺へ 行ってみた
今日は 麒麟がくるの 桶狭間の戦い
桶狭間へ 行くぞ !!!!!! といいつつ 道 間違えた
そしたら 鷲津砦の前に出た (笑)
鷲津砦(わしづとりで)は、名古屋市緑区にあった砦。
織田信長によって築かれ、桶狭間の戦いの前哨戦が行われた。
大高城・丸根砦と共に1938年(昭和13年)に国の史跡に指定された。 鷲津砦...
ブロ友の新潟さんの記事 地図から見る大河ドラマ麒麟がくる
なんか怖いんんで いえいえ 山登りしたくないので ここでスルー
階段から向こうは スピな まりちゃん 行きたくないそうです
山の上に 石碑があるだけらしいです
桶狭間の戦いとは
織田信長軍2000vs今川義元軍20000‼ 信長、絶体絶命!
1560年(永禄3年)わずか2 千の兵で、2万の大軍を打ち破った奇襲戦、「桶狭間の戦い」!
尾張の弱小大名、若干27歳の「織田信長」が、駿河国の今川家大将「今川義元」を打ち取った戦いです
ネットより
尾張で勢力を伸ばしていた織田信秀の死後、子の信長が跡を継ぐと、信秀に従っていた鳴海城主山口教継が駿河の今川義元に寝返り、義元は大高城を手中にした。そこで信長は、鳴海城に対して丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、さらに大高城と鳴海城の間を遮断するために、丸根砦と鷲津砦を築いた。鷲津砦には守将として織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子が置かれた[4]。
永禄3年5月19日(西暦1560年6月12日)早朝、尾張に侵攻した今川軍は鷲津砦と丸根砦に攻撃を開始した。その報せを受けた信長は清洲城から出陣したが、熱田神宮に差し掛かった時には、すでに両砦は落城したらしく、煙が上がっていたという[5]。このとき鷲津砦を攻撃した今川方の武将は『武徳編年集成』等の後世の史料では朝比奈泰能とされている[6]が、泰能は弘治3年(1557年)に死去しているため実際は子の泰朝で、親子を誤ったものと見られている。
その日の桶狭間の戦いで義元は討ち死にして今川軍は尾張から撤退し、今川氏から独立した三河の松平元康との間に清洲同盟が成立したため、鷲津砦が再び使われることはなかった。
お向かいは コインパーキング
こちらを どうぞ~
前回の 記事からね
桶狭間の戦いの前に 大高城へ 兵糧を運び込む家康
その大高城と 対峙する 織田方の 丸根 鷲津砦
善照寺砦で 信長さまは 今川先陣が 丸根 鷲頭砦を 落とされと 見たはず
こう見えたはず
いよいよ 桶狭間の戦いですね
尾張人の木蓮は もう 萌え萌えです
麒麟がくる いいねー(*^-^*)
で 木蓮は 50Mむこうの こちら 長寿寺に用事が
新四国八十八か所の お寺
勿論お参りです
なので ここの 駐車場へ 入れちゃいました