テクニック”。 | ルチアーナの音楽時評・アラカルト。

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40年以上に及ぶ音楽家としての筆者の活動と
その経験から得た感動や自らの価値観に基づき
広く芸術、エンターテイメント等に独自の論評を
加えて参ります。現在小説 愛のセレナーデと、
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テクニックによってのみ歌が上手くなるなどと言う事は天地が逆になったとしてもあり得ない。しかしテクニックを全くと言っていい程持ち合わせていない人間がその手の事を言うのは全くの本末転倒、話にならない。そんな事で自身のお粗末な歌を正当化されてはたまらない。たが今の時代、もしかすると自身が下手だと言う事すら分かっていない自称歌手が最悪の勘違いをしたまま一人悦にいっているケースが横行しているのではないか。そう思えてならない。アイドルグループは例外なく集団で歌っているのだから一人や二人下手な人間がいても分からないだろう。口パクと言う手もあるし(笑)。まぁ~古いギャグにならえば「赤信号、皆んなで渡れば怖くない」…っと言った所か!。何度も指摘している様に歌い手に取って「声」は楽音、声帯は洗練された楽器でなくてはならない。歌手は歌手だ!。歌を歌う専門的担い手だ。だから歌で勝負するのが筋である。その為のテクニックは歴然たるものだ。淀みなく醸し出される自然な響きの中で的確なフレーズを描く事、言葉のニュアンスを性格に提示する事、ブレス間隔の適正をキープする事、etc。歌の精度を如何に密なるものにするかがまさにテクニックの根本である。そしてそれがベルカント唱法にある事は明確な事実である。私は45年もの長きに渡りベルカント唱法の修得の為、勉強追究を重ねて来たが恥ずかしながら、私自身の声そのものに陰りが表れ始めた昨今に至っても尚、勉強し切れない部分が山積みである。しかし少なくともこの一年間は最も熱心にそれを追究しない訳にはいかない。リサイタルが控えているからだが、にわかにそれだけとも言い切れない。このままでは、あらゆるジャンルにおいてまともな歌を歌える人間がいなくなる。今、我々が心してかからねば大変な事になる。音楽表現の手法とテクニックがどうリンクするのかをあらゆる機会に如何に伝承するかをもっと真剣に、ある意味危機感をもって考察するのかが問われているそう言う時代が今なのだ。「どうしたら上手く歌えるのか?」そんな事を聞かれても一口で言える訳がない。個々に持つ声の特質を踏まえ各々の問題点を様々、クリアして行かない限り歌唱の為の基本テクニックは身につかないし役に立たない。これは一対一で真っ向教えるしか手がない。だが一つだけ申し上げておこう。歌のテクニック不足が最も顕著なリスクとして現れるのは音程だ。声の重心が定まらず不安定では音程は正しくキープ出来ない。同時に鳴らない声!これも然り、大声を張り上げてもそんなものは歌にあらず!声は決して鳴っていないのだ。ただうるさいだけ…。それを又、マイクなどを通されたら地獄絵図だ。耳の故障の引き金にもなりかねない。今この国のクラシック音楽の教育機関を除いて俗に言うボイストレーニングの為の施設においてその指導的立場にいる方々が申し訳ないが自身、歌のテクニックをどれ程修得しているのか、甚だ疑問を持たざるを得ない。過去遭遇した事例でも耳を疑いたくなる様なデタラメを平気で教えている自称ボイストレーナーがいた事などは忘れ得ず思い出す度、今だにぞっとする。今我々は自らの修練を厳密に日々重ねながら尚、後進の指導、アドバイスを音楽学的見地から積極的に推し進めなければならない。しつこくて申し訳ないが私はクラシックの歌い手だ。…が、しかし先述の島倉千代子、美空ひばり等、昭和を彩った代表的な大衆歌の名歌手には尊敬の念を深く抱いている。そこには私が幾度となく記して来た歌の本質にしっかり根ざした本物の姿があるからだ。もういい加減カラオケ大会の延長の様なおふざけは辞めて本当に心に残る歌を作る為、真面目に全ての関係者が悔い改める時が来ているのではないか私はそう思うのだが…。
(ルチアーナ筆。)

★自らへの戒めも含めて、
申し上げる。歌の勉強は
一筋縄にはいかない。日々
トレーニング&楽譜との格闘だ。