なぜ人は、人を理由にするのか

「あなたのために」という違和感

 

「あなたのために」

その言葉に、違和感を覚えた。

素朴で質素なものが好きなのに、高価で立派なものを買い与えられる。

けれど、私が欲しいのはそういうものではない。

どうしてそこに「あなたのために」という言葉を添えるのだろう。

それは本当に、私のためなのだろうか。

あなたがしたいことであって、私には必要のないことかもしれない。

それなのに、受け入れなければ責められる。

「せっかくあなたのためにしたのに」と。

 

善意という正当化

誰かを思って行動すること自体は、悪いことではない。

けれど、自分が相手のためだと思ってしたことと、相手がそれを望んでいるかどうかは、別の話だ。

善意は、相手に受け入れる義務を負わせるものではない。

「誰かのために」という言葉は、ときにとても卑怯で、暴力的だ。

その言葉を盾にすれば、自分の行動を善意として語ることができる。相手が望んでいなかったとしても、自分は間違っていないと思える。

けれど、その言葉を受け取った人がどう感じたのか。何を強いられたのか。

そこには、目が向けられているのだろうか。

 

相手を思うということ

相手を思うことと、相手の気持ちを尊重することは、同じではない。

誰かのために何かをするのなら、その人が何を望んでいるのかにも目を向けてほしい。

そして、自分が選んだ行動は、自分の言葉で引き受けてほしい。

私はただ、自分の好きなものを好きだと言いたい。

自分が望まないものを、望まないと言いたい。

それだけで、誰かの善意を否定したことになるのだろうか。