後ろさんに委ねることを覚えたら
心に余裕はできたけれど
な6/11
https://ddnavi.com/review/1315941/a/障子破り、おしっこストライキ… 猫との生活は大変だけどそれ以上に幸せいっぱい! もふもふ癒しの猫ライフ
自分的傑作だったんで、弟に見せたら吹き出してました
「あはは!これ鉄パイプだよね!」って言ったら「ツルハシだよ!」って返された、昔に飽きたらず今見てるものさえ頭から消えている未診断ADHDです。こにゃにゃちわキレが良すぎる消しゴムマジックだこと…
そんな私がお送りする、Sさんの霊能者仕事の舞台裏暴露ショーへようこそ❣←気分上げないと今回も頭がついてかないんで……
昨日6/11は以前なら心穏やかにはなれない日でしたが、後ろさんを信じることで乗り切れました
ただ、Sさんのことでの調べ物をまとめるのを後回しにしたので、夏休みの宿題の追い込みをやってる気分で深夜にこれを書いていました( ꒪⌓꒪)
外を掘るだけで盛りだくさん
………鷲峯神社は、亀井茲矩が焼き払う(1596年)前にも鷲峰山中の尾崎に移る(1317年)前に社殿が兵火にかかって消失している。
問題は、亀井茲矩が焼き払ったという規模で。
それに関する資料が残されていないんで、何とでも言える。
そして、亀井茲矩が類焼とはいえ神社を火に包んだのは鷲峯神社だけじゃなかった
子の政矩が住吉神社に社領を一反歩与えたのは、父茲矩が亡くなる前年のことですでに臥せっていただろうから、病気回復を願って罪滅ぼしでやっていたのかもしれない……
そして、
重要なのは、Sさんはここまでまったく霊視をしなかったということと、万能執事・清流さんの語りに乗っかる形で進めているということだね
「亀井茲矩の出自は完全無視だな。」
「亀井茲矩の功績も無視だ。」
ちょっと駆け足でまとめるけども。
戦とはいえ、出雲の神々への信仰が厚いと思われる亀井茲矩が、なぜ大己貴命が祀られている鷲峯神社に火を放ったのかなんですよ。
しかも再興したのは16年後の1612年。父・茲矩の跡を継いで鹿野城主となった政矩が社殿を現在地に移して……という遅い再興。
さらに神紋の、丸に違い梛の葉紋。
これが引っかかる。
調べると、鷲峯神社はどうも昔から修験道で栄えたんじゃないか、と思わせる情報がチラホラ……
決定打というのは無いけれど(遠隔で知覚しようとしても、今の鷲峯神社には神仏習合の面影のようなエネルギーが感じられなかったのもあります😥)、今の鷲峯神社は志加奴神社の『山の宮』らしくて。
『里の宮』がいま気高町に鎮座している志加奴神社で、境内に鐘楼がある。
『鷲峯神社』『鷲峰山』という名前を『じゅうぼう』と読ませること…
奈良に鷲峯(じゅぶ)山という山があると神仏習合の笠山荒神社の記事にあるし、香川県高松市の天台宗の鷲峯寺(じゅうぶじ)もあるしで、仏教的な読み方であるみたいだし、鷲峯神社は元々修験道の神社である可能性が高い
ソースを提示するのに難しいのが、サイト主さんが著作権に厳しかったり、有料記事も載せられるnoteでの記事とアメブロの記事💦(←このブログもアメブロなので、むやみやたらに使用できません😓コミュニティサイトの面が大きいこともあって、他のブログサイトより強い嫌悪感を持たれそうで…)
志加奴神社の記事はnoteで収集することが多くて、目に見える形で提示できないけれど(すみません!🙇💦)
鷲峯神社が大山と張り合うくらい大きな修験道の神社だったことが、『大山の背比べ』の民話でうかがえる。
修験者同士の争いの隠喩か、というのは推測の域を出ませんが💦
………亀井茲矩が鷲峯神社を焼き討ちしたと書いてある記事には、住吉神社のような他の建造物からの類焼だと書かれたものはなかった。
住吉神社はずっと鹿野城跡公園の近くにあって。
亀井茲矩が生きていた当時は、鷲峯神社は現在地よりももっと奥と思われる鷲峰山中の尾崎にあった。
(鳥取市尾崎という地名がありますが、そこは鷲峰山から遠く離れた湖山池の下のほうにあります)
もう鷲峯神社焼き討ちが目当てで、茲矩は火を放ったとみていいと思う。
亀井茲矩がなぜ大己貴命が御祭神である神社を焼き討ちしたかは、当時の鷲峯神社の在り方にあるんじゃないかと。
亀井家が大山の大神山神社奥宮の末社、下山神社に寄進を始めたのは津和野藩の藩主になってからで、現在の社殿を再建したのは1805年。
下山神社の御祭神は備中郡司の渡辺照政。鎌倉時代末期の人。
大山寺の開山は706年。役小角によって開かれている。
もう茲矩(生年1557年)が生まれる800年近く前から、周辺の山にも修験道が発達していてもおかしくはない。
亀井茲矩は仏教色の強い名前をあちこちにつけていたと云われているらしいけども、亀井茲矩本人が仏教を信仰していたということは伝わっていない。
鷲峯神社の神紋は、熊野信仰が強いことが分かるもの。
鷲峯神社の焼き討ちから亀井茲矩が存命中に至るまで、16年も放置されていたことを思うと、茲矩には大己貴命が御祭神の神社とは思えない理由があったのだと思う。
古くから『志加奴神社鷲峯大明神』と称えられていたというから、名前でも神仏習合の色が強かったというのが分かる。
「神々の怒りは16年の間には現れなかったようだ。」
まず本人にわかりやすく、何かしらの大ごとを見せるだろうし。
亀井茲矩は白兎神社を再興するくらいだから、出雲の神様への信仰心はある。
茲矩による白兎神社の社殿の再興は、慶長年間(1596〜1615年)の末に白ウサギの奇瑞の夢を見たからとある。
はっきりと年を明記しないのは、長い年月をかけたのか、どのくらいの再興だかも分からないからか……
白兎神社保存の棟札に、1669年9月に『神官長田式部、庄屋太郎兵衛』が社殿を建立したと書かれているとあるし。
………白兎神社の神紋も、気高町の志加奴神社の神紋が鳥取藩主池田氏の家紋を使っていることからも、出雲大社云々より亀井茲矩の湯氏としての血筋を意識したものじゃないかなと思ってしまう……
霊能者の夢には現れなかった白兎
Sさんは去年の8/8に米子市淀江町のほうのラーメン一刻さんと、鳥取市気高町の道の駅神話の里白うさぎにあるすなば珈琲さんに行っていたという記事を、今日6/12に公開した。
そしてこの『鹿の王の末裔シリーズ』を公開中の今年6/10に、今度は安来市のラーメン一刻さんと、米子市淀江町のお菓子の壽城のすなば珈琲さんに行った。
なんでそこまで合わせる必要が、と思う……
「……クズならこの雲で日暈が現れやすいと分かっただろう。」