こんにちは。
本日も幾万あるブログの中からお越し下さいまして、誠にありがとうございます。
心より感謝申し上げます。
こちらは雪です。
全国的にそうみたいですが
お車の方も歩きの方も
くれぐれもお気をつけ下さい。
<幸田先生語録>
今までのことは今までのこととして
肯定することが大切です。
でも、肯定と満足とは違います。
それで満足しなさいということではなく
「この先どうなりたいか」というオーダーを出していいのです。
それこそが大事なことなのです。
もうね。いろいろつかれた。
やってらんないのさ。
いろいろやること多くてさ。
もうつかれたのさ。
仕事のこと
母のこと
ひっこしのこと
かたづけのこと
・・・
もうつかれたのさ。
いやなのさ。やるのが。
ふうう。 はああ。
もういいのさ。
せっかくだ。
自己観察しよう。
①出来事
やることが多い。
やらなくてはいけないことが多い。
②感情
イヤだ
できない
不能感
無力感
嫌悪感
どれが一番強い?
こんなのもうできないよ、という
無能感、無力感が強いことに気づく。
③価値観
無能感をしっかり感じてみる。
すると
「できないのはいけない」
っていう価値観があることに気づく。
もう、
今この時点でできなかったらすべて認めない、
生きてる資格ない、
とっとと死んじまえ、
的な価値観がある。
だから「できない」にぶち当たると
もう何もかも嫌になってくる。
生きてるのさえイヤになったりしてくる。
だから、最初の就職先でも次のところでも
「できない」に直面して
結局逃げだしたわけだ。
その「できない感、無力感」こそ
観る必要があったのだ。
その「できない感」に潜むドロドロとしたものを観させるために
手を変え品を変え
過去何十年にもわたってそういう現実が起こってきていたのだ。
何度も何度も。
中学の時、体育で剣道があって、面がうまくかぶれなくて
何度も皆の前でやり直しさせられて
「持って帰って練習するか?」と先生に言われて
「嫌です」と断ったことが、今浮かんできた。
今思えばあれもそうだったのだと気づく。
で、
結局、自分に対してそういう観方をするということは
周りの人に対してそういう観方をしているということである。
少し前、知人でブログを書いている方で
「アクセス数の見方を知らない」という方がいた。
そのブログは書く欄の横の方に
何もしなくてもアクセス数が出るものだったので
「え!」と驚いたのだが、
その方は、その「え!」の中に潜む
「信じられないよ、うそでしょ!」
というようなバカにした声を感じ取ってしまい
すごく傷ついていました。
そしてすごく注意されました。
上野の中には
「積極的にバカにしよう」
という意識はないのですが
「できないやつは生きてる資格なし」
という価値観が現れていたのだと思います。
というか、そこかしこで発しているのでしょう。
自己卑下でも何でもなくて
ほんとにそうなんだろうなあと思います。
顔に米粒くっつけたままで気づかない、
みたいな感じで。
で、自分がそういう人であるならば
当然、周りの人もそういう人が多くなってきます。
もともとそういう人を引き寄せたり
そうでないとしたら
その人の中にある
「できないことを認めない」という部分を触発したり、
という形で。
自分でわざわざ生きにくい世界を創っているということです。
※念のため、アメブロではそんなことないです。
皆様本当にありがとうございます。
でも、なんでそもそも
「できないことは認めない、できない人は認めない」
になったのか?
それについて観てみると
「自分はすでに完成品である」
という価値観があることに気づきました。
完成品だから、
その時点ですでにできなきゃいけない。
できるようになるまで待って、とか
育てて、という発想はない。
その時点でできなきゃ捨てるしかない、的な。
ああ、だから捨てることに対して抵抗があるんか?
捨てる=不良品=無能=自分、みたいな方程式があるのだ。
で、同時に
完成品だから、人の意見なんてくだらなくて聞けない、
だってもう完成してるんだから、
もう終わっちゃってるんだから、
っていう思いが潜在的にあるはず。
(ほんとに終わってるわと思う、別の意味で)
だから、
「この先できるようになって」
とか
「一歩ずつ見守って」
という観点にはならない。
できない、ダメ、ハイ終わり!
みたいな感じにしかならない。
自分にも周りにも。
潜在意識的に。
はああ、そうなんだ俺って。
そういう傲岸不遜が根っこにあるんだ。
じゃあその傲岸不遜はどこからくるの?
なんでそんなに「完成品だ完全だ」って思いたいの?
そんな自分じゃないこと一番よく知ってんのに。
出てくるのは
「そうじゃないと人に認められないから」
また出てきた。
なぜ認められたいのか?
自分で認めてないから。
自分が完成品だと思いながら
完成品じゃないとダメだと思い込みながら
自分で完成品じゃないのを知ってるから、自覚してるから、
だから周りから
「認めてもらう」というお水がほしくなる。
でもその周りの人は
自分が映ってる鏡だから
「完成品じゃないと認めない」という上野の考えが強ければ強いほど
同じように「認めない」になる。
どこまでいっても自分しかいない。
自分で自分にお水をあげない限りは
どこからももらえない。
「天は自ら助くる者を助く」って
こういうことかもしれない。
周りがどうこうではなくて
あくまで上野の問題。
もうここらへんになってくると
「ニワトリと卵」で
堂々巡りになってくるわけだが
ともかくそういうこと。
根っこに傲岸不遜があって
それがいろんな形で影響している。
で、真理としては「どちらでもいい」なので
別に傲岸不遜でもいい、となる。
それが悪いわけではない。
それを体験したければ、それも自由。
でも、どう、上野?
それで楽しい?
自分は完成品だ、ってやって
潜在意識下ではこの先何も成長しない、っていうので
ほんとに楽しいの?
あきらめのご隠居生活、じゃないのそれって。
人を裁いて、ダメって烙印押して、
それで優越感に浸って楽しいの?
それって、自分の上のひとからダメって烙印を押される、ってことになるんだよ。
それでも楽しいの?
だいたい上とか下とかって何?
できるできないって何?
できる、ってんだって
あくまで上野のできる範囲内での「できる」であって
もっとハイレベルの「できる」の世界があるわけだよ。
それを観ようとしていないだけ。
それも完成品意識の表れ。
恐れでもあるのだろう。
そんなの、くだらなくない?
意味なくない?
100歩譲って、自分が「できる」んだとしたら
その「できない」人をサポートする、って選択もあるわけじゃん。
アクセス数見る方法がわからなかったら
「ブログ書くときにちょっと右の方見れば出てますよ」って
教えてあげればいいことじゃん。
うん、優越感味わいたかったんだなあ、って思う。
それが味わいたいってことは、劣等感を味わってたということ。
それも、自分で比較をして、自分で創った劣等感を。
ああくだらない、意味ない。
さらに言えば、
自分のできるものを人ができなくてバカにするということは
「自分のできることなんて大したことではない」
と無意識のうちに思っているということである。
自分にできることなんてあったりまえのことで、
とるに足らないことだと思ってるから
それすらできないひとってどんだけひどいんだ、
っていう発想になる。
つまり、その時点でものすごく自分をバカにしているということ。
自分への感謝や、体への感謝、命への感謝もない。
すべてが当然の世界。
ああやだやだ。
苦しくて当たり前だ。
でも、これはこれで意味のあることなのだ。
そう思い込むという話ではなく
過去のいつか、もしかしたら
過去生のいつかから抱えてきたこの思いを
気づかせてくれたから。
気づくことで、浄化もできる。
出てきてくれてありがとう、なのだ。
だから、今までは今まででいい、肯定する。
大事なのはこれから。
この先、どうしたいか?
傲岸不遜の自作自演を上演し続けるのか?
違う演目を選択するのか?
すべて自分次第、上野次第。
違う演目を選択します。
もっと心安らげる演目を上演します。
自分も周りもあたたかい目で見守って
成長していける作品を上演します。
そういうオーダーを出します。
以上!
おかげさまで、すごく楽になりました。
ありがとうございました。
ここまでお読みくださいまして、
貴重なお時間を頂戴しまして、
本当にありがとうございました。
深く感謝申し上げます。
あなたにとって、
今日も最高にHAPPYな1日でありますよう
お祈り申し上げます。
3月4日(日)午後1時30分~午後4時30分
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