こんばんは。
本日もお越し下さいまして、ありがとうございます。
今日、道を尋ねていらしたお客様(少しご高齢のおじさん)がいらっしゃいました。
目的地は、50メートルくらい先のセブンイレブン。
まっすぐ行った先なので「この先です」と説明しましたが「見えない」とおっしゃいましたので、一緒にご案内することにしました。
この辺りは初めてですか?と聞きますと「駅の方にはよく来るしこの近くも何度も来てるんだけど、こっちには来ないんだよ」とのこと。
「そうですよね。近くの通りまで来ても、歩かないところって歩きませんよね」なんて話しているうちに、もう到着しました。
その方と別れて「内面のことも同じかもしれない」と思いました。
「自分はこういう性格」「こういう人間」という思い込みって、どうしてもあると思います。
それで、何かあって、自分のことを考えたり振り返ったりするときに、「こういう性格だから」とあきらめたり、躊躇したりしてしまいます。
それまでと同じ道を通ってしまいます。
同じ道を通っていれば、やっぱり行き先も今までと同じです。
その先にあるのが決して自分の望むものではないとわかっているのに、ついつい慣れてるから行きやすいし、行ってしまう。
でも、本当はこんなと近くに、今まで見知らぬ便利なもの(おじさんにとってのセブンイレブン)がある。
それを見つけられる、見つけられないの差ってなんだろうかと考えます。
人に聞く。
何かあるはずだと思って探す。
今まで行ったことのない道を行ってみる。
(おじさんにしても「道」自体は見えていたはずです。)
こんなところでしょうか?
人に聞くにしても、歩いていくのは自分であり、足を運ぶということだなと思いました。
見知らぬおじさんが、いろいろなことを教えて下さいました。
おじさん、ありがとうございました。
<幸田先生語録>
お金について。
いくらあれば安心なのか?
どうして不安になるのか?
お金とはそもそもどういうものか?
一度、じっくり考えてみる。
ある時のこと、信頼できるお知り合いの方から、融資のお話が舞い込みました。
その方の知人の方へ、開店資金の融資のお話です。
(普段、そういうお話には縁もありませんし、興味もない私です。)
お話自体はとっても条件のいい内容でした。
(お話を持ってきて下さった方自身その話に乗ろうと思うほどなのですが、ちょうどいろいろ物いりだったため、自分でそのタイミングでは厳しかったそうなのです。)
もし心配なら私が保証人になる、とまで言ってくれました。
全く心配のない方なので、お金が戻ってこない心配はありませんでした。
ひとつ、とてもネックになることがありました。
その融資額と、私が自由に動かせるお金が、ほぼ同額だったのです。
お金についての価値観を観なさいということなんだろうなと思いましたが、手元にお金がなくなるということを不安に思う気持ちが強く、深く自己観察することもなくそのお話は丁重にお断りしました。
(2年で完済の計画でしたので、元通りになるには2年近くかかるという計算になります。)
その後、幸田先生にそのお話をしました。
すると
「出す出さないは別にして、お金について観た方がいいですね。
たとえば、手元にいくらあれば安心ですか?
その金額が自分の中で算出できたとして、その根拠はどこにありますか?
また、その額で本当に安心できますか?
これも起こってきたことであり、このタイミングで体験する意味があったことですから、これも宇宙からのプレゼントだと思って、しっかり観察してみるといいですよ」
というアドバイスを頂きました。
観察してみました。
出来事
信頼のおける方から、条件のいい融資のお話を頂いた。
それが自分の動かせる金額とほぼ同額である。
感情
不安。
手元から使えるお金がほぼなくなるという不安。
価値観
最初は手元からなくなる不安だと思っていました。
しかし、自分の中をよーくよく観てみると、嫌悪感、でした。
お話を持ってきて下さった方は信頼できても、開店する方(実際に融資を受ける方)は、そうはいってもいつか支払いが滞るんじゃないのか?
そうなったときに、変に遠慮とか同情とかしてしまって、きちんと催促できないのではないか?
ああ、なんか絶対なりそう・・・
イヤだイヤだ!なんでそんなことに首を突っ込む必要があるのだ?
そんなややこしくなるような話に、なんでわざわざ自分から入り込む必要があるのだ!?
こういう感情でした。
もし自分が倍の金額を持っていたとしても、この話には乗らなかっただろうと思いました。
金額の問題ではなかったのです。
手元からなくなる不安ではなかったのです。
そこで、その嫌悪感を強く感じながら
「どうしてお金がらみの事で嫌悪感を感じるの?
どうして?どうして?・・・」
と自分に問いかけました。
すると、出てきたのが
「毅然とした態度をとれない」
という価値観(ブロック)でした。
「なんで毅然とした態度をとれないの?」
もうひとつ問いかけました。
「自分が正しいという自信がないから」
が出てきました。
同じ要領で
「なんで自分が正しいという自信がないの?」
問いかけました。
すると、それがいいと思っている自分がいました。
なんで自信がないことが「いい」ことなのか?
自分はまだまだ未熟である、
満ち足りていない、
まだまだ足りないということを自分でわかっている、
わかってないようなそんな傲慢な人間ではない、
まだまだ自信なんて持ってはいけないんだ、
この状態で自信なんで言ったらおこがましいことなんだ、
こんな価値観を持っていることにに気づきました。
だから自信がなくていいんだ
それは謙虚ということなんだ、みたいな。
だから「自信がないことが、いい」みたいになってしまっていたのです。無意識のうちに。
でもその(いいはずの)自信のなさが、
ちゃんと支払っていけるはずの人を、支払いが滞って自分に迷惑をかける人に仕立ててしまうのです。
無実の人を、罪人に創造してしまうわけです。
その方がよっぽど罪なことだと思いました。
間違ってはいけない、という価値観も持っていることに気づきました。
でも学校の問題じゃあるまいし、正しいとか間違ってるとかって、誰が決められるのかと思いました。
正しいも間違いも、決めるのは自分じゃないかと思いました。
(違法なことをしていても、自分が正しいと思えば正しい、とかいうことではありませんのでご理解下さい。念のため。)
もうこんな価値観は要らない、と思いました。
間違ってもいい、
今の状態で自信を持っていい、
毅然とした態度をとれる、
そう決めました。
この稿、続きます。
ここまでお読みくださいましたあなた様、ありがとうございました。
あなた様にとって、今日も最高に実りのある1日になりますよう、心よりお祈り申し上げます。
それでは、失礼致します。