誰にでもわかるシンプルな言葉で、”真(ほんとう”のことを伝えることができたらなと、いつもいつも思っています。
でもそれは至難の業。
感動すればするほど、思いが強ければ強いほど、その感動や思いにふさわしい言葉が見つからないのです。
もう10年以上前のことですが、そのことを、以下のような言葉でわたしに教えてくれた人がいました。
「ほんとうに大切なことは、誰にもでわかる言葉で伝えなければなりません。
もしそれができないとしたら、自分自身が、その”ほんとう”を突き詰めていないということなのです。
大切なことこそ、誰にでもわかるシンプルな言葉で伝えることができなければ。
難しいことかもしれませんが、でもきっとできるはず。
鉱脈を探すようにしてそのシンプルな言葉を探しなさい」
わたしが子どもの頃から尊敬してやまなかったそのかたは、著名な著述家でしたが当時すでにかなりのご高齢で、お会いしたその年、天に旅立たれたので、わたしは一度しかお会いする機会がありませんでした。
でもその言葉がずっとずっとわたしの心に残り、折々に思い出してきたことを思うと、まさに一期一会の教えと気づきをくださったのでしょう。
それにしても、誰にでもわかるシンプルな言葉って? それに鉱脈って?
わたしは、落ち着いてから鉱脈の意味を辞書で調べて、鉱脈を探すということがどんなに難しいことなのかを知って、気が重くなったのです。
そんなこと、とてもじゃないけどできない。
自分が何をどう伝えたいのか、そしてそれをどう書きたいのか、いえ、それよりもそこまでして伝えたいこと、書きたいことが、果たしてわたしにあるのかしら?
ほんとうに何が何だかよくわからなくなってしまったのでした。
それは多分、2003年頃のことだったのではないかと思うのですが、きよしさんのある会場で開催されたコンサートに、そんなもやもやした思いを抱えて参加していたときのことでした。
歌詩の一節、一節を真心を込めて唄うきよしさんの歌唱を聴いているうちに、心のもやもやが次第に晴れてきて、ふと辺りを見渡すと客席の皆さんが明るく笑顔になっていく様子が、まるでお花が咲き出すように思えたのです。
その瞬間、もう理屈はどうでもいい。
わたしの鉱脈探しのヒントや手がかりは、きよしさんがくださるはず。
なぜだかそんな予感がして、今できること、今したいことをしていけばいいんだと心が落ち着いたのでした。
折々にきよしさんのことを手帳に書きとめてはいたのですが、感動がどんどんふくらんでいって、いずれはホームページを作りたいと思いようにまでなり、先にアップしたイントロのようなものを(すっかり忘れてはいましたが)書いてもいたのですが、実際に作るまでに至らなかったのです。
それが、いよいよきよしさんの10周年を前にして、これまでのことを書いてみたいという思いが募り、そしてその時期を逃したら、また書けずに終わるかもしれない。
今しかない!
そんな思いで、まだ機能もよく知らなかったブログを書き出し、今日まで続けさせていただいているわけなのです。
その後、”鉱脈探し”について、わたしがはっきりとわかったことは、そのための特別な方法も近道もないということでしょうか。
ただただ真心こめて、自分を見つめながら書いていくことが、”鉱脈探し”へのいちばんの近道に違いない。
そう思えたころ、水木れいじ先生が、きよしさんのために「ときめきのルンバ」を書いてくださり、遅ればせながら、先生の描く詩の世界にふれさせていただくようになったのです。
その年末に、水木れいじ先生が「ときめきのルンバ」で日本作詩大賞を受賞され、受賞後のコメントを目にしたとき、鳥肌がたつほど驚き、感動したのです。
先生は、作詩をするときに、”辞書を引かないとわからないような言葉は使わない”ということを貫いていらっしゃるこを、そのときあらためて知って、わたしが途方にくれていた、”鉱脈探し”の、”そのずっと先”を水木先生が歩いておられるのだと、励まされ、むくむくと勇気がわいてきたのでした。
きよしさんを通して、先生の存在や作品に深くふれさせていただくようになったことを思い、
水木先生が日本作詩大賞を受賞された喜びと、先生の受賞をご自身のこと以上に喜ばれ、涙されていたきよしさんの優しさへの感動と共感がないまぜになって、ぐるぐると目の回るような感動に包まれたのでした。
そして、ああ、やっぱりあのときの予感はただの自分の思い込みではなかったんだ。
心からそう思ったとき、わたしはきよしさんの歌唱から、さらなる手がかりやヒントをいただくようになったのです。
キャンペーン時代、初代マネージャーさんはとても厳しいかたで、歌詩を間違えるとごはん抜きというようなこともあったことを、きよしさんご自身がお話ししてくださったことがありましたが、なぜ、マネージャーさんがそこまで厳しくされていたのかを、きよしさんはデビューしてからの歌手人生の折々に痛感されてきたのではないかとわたしは想像しています。
そして18日仙台サンプラザホールでのコンサート、夜の部で、”唄わせていただいている”という思いで自分は唄いたいとおっしゃっていたきよしさんの言葉に、15日の「NHK歌謡コンサート」での15周年の口上が思い出されたのでした。
一度、アップさせていただきましたが、ここであらためてアップしますね。
氷川きよしです。
早いもので僕の歌手人生も15年目を迎えました。
これまで数々の歌を唄ってきました。
主人公の様々な人生に思いを寄せて、心を込めて演じてきたことは、自分が成長する上で大きな力になっています。
(ひと呼吸おいてから)
今日、お届けするのは、幕末の剣客・平手造酒の義理と人情に生きた人生を描いたこの歌です。
「大利根ながれ月」(と口上を述べたあと、新曲「大利根ながれ月」を歌唱。2014年4月15日 「NHK歌謡コンサート」オープニング)
デビュー以来、数々の歌を唄ってこられた、きよしさん。
過密スケジュールのなか、完璧なまでにその歌をご自身のものにされ、見事な”氷川節”で聴かせてくださってきました。
でもその陰ではどれほどの苦労があったのでしょうか。
ステージやテレビでの笑顔のきよしさんからは、まったく想像がつきませんが、それでもファンとしてきよしさんを見つめてくるなかで、大げさでなく、壮絶ともいえる努力をされてきたに違いないことを感じています。
2006年のことでしたでしょうか。
「お富さん」をアルバムに収録した頃、コンサートで唄っておられ、カバー曲を披露するコーナーの最初に、ステージ中央の階段の上から降りながら唄うという演出になっていたかと思います。
どうも、「お富さん」の何かが、きよしさんの記憶を妨げるようで、唄い出したものの、そのあとの数フレーズが出てこないというようなことが時おりあって、きよしさんはそんなとき、平謝りに謝られて、再トライされたのですが、それでも出てこなくなってしまったことがあって、階段から降りる演出をやめ、ステージに降り立ったまま唄われたこともありました。
きよしさんは、”ほんとうに申し訳ありません”と、何度も頭を下げてこちらが申し訳なくなるほどにおわびされていましたが、完璧主義者のきよしさんだけに、はじける笑顔でエンディングを迎えたものの、その心中を思って胸が痛んだのです。
いくら歌の天才であっても、覚えにくい曲もあって当然。
もしそんなことが続くなら、曲目を変えるとか、歌唱を回避する方法とか、きよしさんの負担を軽くする方法を何か考えくださらないかしら?
かなりおこがましいのですが、でもその当時、そんなことを考えていました。
でも、もちろんきよしさんは絶対にそんなことはしませんでした。
今日こそは大丈夫! と正々堂々とステージに臨んで、でも、もしも何かあったら、そのときには誠心誠意おわびするというスタンスでステージに立たれているように感じました。
あるラジオ番組では、生放送で唄うのですが、分刻みのスケジュールをこなすなかで、その番組にも出演されていることを思うと、準備の時間にも物理的な限界があるはず。
観覧のお客様は200名ほどいますが、唄い慣れないカバー曲を唄うときには譜面をお持ちになってもいいのではないかしら?と、いつも思っていました。
でも、きよしさんは、ただ1曲をのぞいて絶対にそうはしませんでした。
それまでヒヤリとすることもなかったわけではないと思っていましたから、わたしはきよしさんの歌手としての誇り高さを感じたのですが、当時の手帳に、
”この人はいつでも掛け値なし、ギリギリのところまで自分を追い込んで命懸けで唄っているのだ”
と書いていたのを見つけました。
きよしさんと歌詩ということで、さらにもうひとつ思い出されることがあります。
今年の新年に放送された「演歌の花道」では「黄昏のビギン」を大人の魅力たっぷりに唄ってくださいましたが、この歌をコンサートで唄っておられたときも、歌詩に腐心されているようでした。
そのころにおこなわれたディナーショーでのこと。
ステージに緞帳がないので、終演後、なんとはなしにステージを見たら、床に、スタッフが作ってくださった歌詩のボードが置かれているのに気づきました。
茶色のガムテープをびっしり貼って、そのうえに黒マジックで歌詩が書かれていて、わたしとKさんは、ほぼ同時にそのボードに気づいて、そして顔を見合わせて、うなづきました。
つい数分前まで、そのステージで最高の歌声と笑顔で魅惑の世界に誘(いざな)ってくださったきよしさんのことを思い出し、尚いっそう胸が熱くなったのです。
先に、”命懸けの歌唱”であることを感じたことを書かせていただきましたが、きよしさんが、その”一節”を、聴く人に届けるまでにどれほどの努力を重ね、さらに、唄うその瞬間に燃えるような命を込めてくださっているのかを思わずにはいられず、また、わたしの”鉱脈探し”は、”氷川jきよし”の歌唱にあるのだと思わせていただいたのでした。
今にして思うと、ほとんど、きよしさんのことしか見えていなかった時期でしたが、そのときに初めて、”氷川きよし”を支えるスタッフ、”チーム氷川”の存在を意識して、おこがましい言い方かもしれませんが、きよしさんはひとりではないのだと、ホッとし、その存在を心強く思ったのかもしれません。
歌詩を間違えることはプロとしてもっとも恥ずべきことだと、きよしさんが思っていらっしゃることを感じてきたので、もしもそのようなことがあっても、このブログには書かないと決めて、ずっと続けてきました。
でも、世の中の流れというものは予測もつかないもので、たとえば、精巧な造花が存在するようになると、美しい花は枯れることで造花でないことを示し、食べ物もかびたり腐ったりすることが防腐剤が使用されていないことの証明になるように、歌においても、歌詩の誤りやアクシデントが、逆に口パクではないことの証しになる時代になっていることを感じるようになりました。
それで、3月2日にNHK BSプレミアムで放送された「昭和の歌人たち 作詞家・西條八十」を見ていて、関東大震災に遭遇した八十が、避難していた上野の山で、流行歌の持つ力というものを感じて、流行歌の詩を書くことを決意したというエピソードを知って、わたしは、またここにも”鉱脈探し”の手がかりがあることを感じたのです。
そのときから、何とか”鉱脈探し”のこと。
そしてほとんど不可能と途方にくれたのもつかの間。”氷川きよし”の歌ことが”鉱脈探し”への道だと思わせていただいていることを書いてみたいという思いがわいていたのです。
また、今回、書かせていただいた、わたしが目にしたきよしさんのことは、いつもブログをお読みくださっている皆さんに、いずれはお伝えしたいとずっと思っていたものでした。
でも歌詩にまつわるアクシデントにふれることにもなるので、そこはこだわってこれまで書かずにいたのです。
でも先に書かせていただいたように、わたしの価値観も少し変わったので、この記事の前半に書かせていただいた、”鉱脈探し”ともつながっているので、一緒になら書けるかもしれないと思案していて今になりました。
数々の名曲を唄い継いで、その曲の魂や輝きを今に甦らせること。それは誰にでもできるものではありません。
心技体。
それらが三位一体になって、あの歌唱が生まれているのだと、きよしさんの素晴らしい歌唱を聴くにつけ、感じています。
そして、その根幹には、”感謝”の思いが常に流れているのを感じるのです。
※皆さま、だいぶお時間いただきましたが、書いてみたかったこと、なんとかまとめてみました。
このブログをたいした準備もせず始めたので、当初から書きたかったことを書けないままでいるうちに、今度はそのことが書きにくい状況になっているように思えて。
わたしなりの葛藤が少々ありました。
そんなこともあって、一時ブログの休止を考えてもいました。
そのときは少し言葉足らずで、何人ものかたを驚かせてしまい、ほんとうに申し訳なかったのですが、わたしとしては、最近、このブログにアップさせていただいたように、HPの下書きや、きよしさんへのお手紙など、自分以外のどなたかに見ていただくいただかないにかかわらず、きよしさんへの思い、感動を書きとめずにはいられずにきているので、どんな形になっても、自分自身がすることはあまり変わらないのです。
ファンとしても15周年を迎えさせていただきましたので、ブログを始める前のことを思って、少しずつ書いてみたいと思っていてそのままのこと、書いていこうと思います。
明日は松本に行ってまいります。
初めての”氷川きよし フルコース”の予定。
ドキドキしていますが、今日はこれから新宿で観劇。
原稿を書かせていただくためなのですが、今日しか行かれる日がなくて...。
明日は新宿に早朝(わたしには)待ち合わせなので、朝が弱いわたしとしては、そのまま新宿に泊まってきたい思いです。