昨夜、記事が書けないままになってしまいました。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
きよしさんは、今日は北海道ですね。
「コロッケぱらだいす ごきげん歌謡笑劇団」と「ごきげん歌に乾杯!」の公開収録が恵庭市民会館でおこなわれますね。
昨年は富山、島根と公開収録に参加させていただいたので、今回も参加させていただけたら、わたしにとって初北海道ということもあり、できれば行ってみたかったのです。
でもまたあらためて書きますが今月10日から”HK黄金月間”を予定しているので、その前に仕事を寄せていることもあり、応募をして当選させていただけたら、それはそれでまた迷うと思い、心を鬼にして(?)、応募からあきらめたのです。
それととてもとても個人的なことですが、今日は、わたしにとって思い出深い日。
だいぶ前に、このブログに書いたことがありましたが、突然のからだの変調で生命の危機を感じた日でした。
どうしよう?
と目の前が真っ暗になったとき、きよしさんが当時リリースされていた「初恋列車」を聴いて、何があっても最後の最後まで弱気にならずに生き抜こうと思わせていただいたのです。今もあの日のことを思い出します。
その後、重大な病気の疑いがなくなり、今日に至っていますが、この日は忘れることができないのです。
あらためて今日も笑顔ですごさせていただけることに感謝して、また日々の出来事や出会いを大切に過ごしていこうという気持ちにさせていただいています。
私はまだブログというものが恐らくこの世になかった2002年頃、きよしさんへの思いを綴りたいと思い、いずれホームページを作ろうと考えていたのですが、どうもイントロと題してホームページのトップ画面に載せる文章を考えていたようで、昨日思いがけず、その下書きを見つけたのです。
その下書きは、内容から2004~2005年頃に書いたものではないかと思いますが、10年を経て、変わるどころかますます深まるきよしさんへの思いをしみじみと感じて、自分自身でじんときてしまいました。
下書きですが、当時の気持ちそのままを皆さまにお読みいただけたらという思いから、ここにアップしてみますね。
☆以下はその下書きです。
その下書きは、内容から2004~2005年頃に書いたものではないかと思いますが、10年を経て、変わるどころかますます深まるきよしさんへの思いをしみじみと感じて、自分自身でじんときてしまいました。
下書きですが、当時の気持ちそのままを皆さまにお読みいただけたらという思いから、ここにアップしてみますね。
☆以下はその下書きです。
もうこれまでに幾度もコンサートや公開放送、イベントに足を運んだ。
今でも舞台近くの席で間近にその姿を見るとき、その唄う姿の真剣さに息を呑むことがある。まるで居合い抜きや命懸けのアクロバットを見るときのようなヒリヒリとした空気が漂う瞬間があるのだ。
もちろん発せられる歌声は心地よい高音で、聴く人を和ませこそすれ、緊張を強いることはないのだが。
それはたとえば歌がどうやって生まれたのかを考えてみると、インドの声明(しょうみょう)から生じたものであることを思えば、いわば天と人とをその音で結ぶのが歌い手ではないかという気がする。
だからこそその歌い手は選ばれし者であり、その天分をいかんなく発揮するために全身全霊を捧げることができる者なのではないだろうか。
それは無になり自分自身が何ものにも代え難い唯一無二の天の力(あるいは神)の奏でる楽器になるということなのかもしれない。
ここ数年一ファンとして数えきれないほどのステージを見てきたわたしには、氷川きよしに関してそんなふうに考えると合点のいくことが多々あるのだ。
2002年から全国縦断ツアーをおこない、昼夜2公演。1回のステージではアンコールを含めると歌唱曲は20曲を超える。合間に”ふれあいコーナー”と題したトークコーナーがあるが、それ以外は唄い詰め。
けれどもどの曲もこれでもかというほどに全力歌唱するのだ。
コンサートを年間100公演以上おこない、さらにイベントや公開収録、ディナーショーと、人前で唄う機会が数限りなくあるが、そのなかでポップスの歌手と大きく異なると思われるのは唄う楽曲だ。
氷川は40年、50年も前の名曲の数々を唄うのだが、歌詩ひとつとっても難解なものが多い。またその楽曲を持ち歌とする歌手の歌唱をタイムリーに聴いたことがある観客たちの前で唄わねばならぬのだ。
もしあなたが、「それほどうまく唄えなくても孫のような若者がよくやっている」ということで氷川が褒めそやされているのだろうと思っているとしたら、その認識はあらためていただきたい。
上手く唄えてこそ初めて賞賛を得られるシビアな世界なのだ。
あの風貌ゆえ、お年寄りに可愛がられ、何をどう唄っても、何をしても、受けていると思ったら大間違いだ。
まずその圧倒的な歌唱力で、聴く人の心を鷲づかみにしてきたのだ。
NHKの「歌謡コンサート」や「BS日本のうた」でこれまでに披露した曲をとってみても実にバラエティーに富んでいる。
とりわけ「歌謡コンサート」はNHKホールでの生放送。会場には3千人もの観客がおり、共演者は全員自分より年上の大先輩ばかり。
失敗は許されないし、視聴者、観客、共演者、スタッフの誰よりも自分自身がそれを許せないタイプであり、よく言えば完璧主義者に違いない。
だからわたしは、いつもよくそのなかで唄えるものだと思わずにはいられないのだ。
歌詩はひたすら紙に書いて覚え、本番ギリギリまで楽屋で練習する。演歌は節回しも独特で、ここに何回こぶしを入れるというように本人いわく版画のように彫り込んでいく作業だというが。
<途中欠落>
わたし自身、彼のCDを聴いて「上手い」と思っていたものの、本気で惹かれるようになつたのは、「旅笠道中」を聴いた瞬間だったのではないかと思う。
そしてその後初めて生の歌唱を聴き、そのあまりにも豊かな声の響きに魅せられ、心身ともに絶好調のときに、彼が発する声色の濃淡、襞がおよそCDにさえ収まるものではないことを知ってしまった。
まさにこの世ならぬ歌声なのだ。
一度その歌声を聴いてしまったわたしは、再び聴きたくて、その歌声を求め続ける運命となった。
これまでどんなときでも何かしらの感動を与えてくれ、一度たりとも失望させられたことはないが、先に書いた神業を目の当たりにするような瞬間はそう何度も訪れているわけではない。
けれども確実にそういう瞬間があり、それは20代の青年が持つ声ではないように感じる。
朗々とこだまし、その歌声は風や雨といった自然が奏でる音を凌ぐものだ。
「白雲の城」の詩吟バージョンを名古屋の中日劇場で聴いたときには、衝撃が突き刺さった。
詩吟部分は録音ではあるが、「春望」を詠んだ杜甫の心境を表出させていた。
遠いどこかの名も知らぬ人里離れた谷間に響き渡り、太古を思い起こさせるような原初的な声。
そしてその声が朗々とこだまする深い峡谷が一瞬にして私の眼前にうかんだのだ。
私は氷川きよしに対して世間一般に使われている「王子」や「若」という呼称は、ほぼその外見にあたえられたものであり、その歌声、魂にはもっとふさわしい呼称があるのではないかと思っている。
いずれ、その風貌が、その歌声や魂と均衡のとれるものになったとき、彼がどんな歌手になり、どんな歌を唄うのか楽しみでならない。
絶えず身一つ。流れ流れて、唄い唄って…。
氷川きよしが唄う限り、ファンのわたしもまた、生涯をかけて、飽くなき歌の道を歩んでいくことだろう。
上手く唄えてこそ初めて賞賛を得られるシビアな世界なのだ。
あの風貌ゆえ、お年寄りに可愛がられ、何をどう唄っても、何をしても、受けていると思ったら大間違いだ。
まずその圧倒的な歌唱力で、聴く人の心を鷲づかみにしてきたのだ。
NHKの「歌謡コンサート」や「BS日本のうた」でこれまでに披露した曲をとってみても実にバラエティーに富んでいる。
とりわけ「歌謡コンサート」はNHKホールでの生放送。会場には3千人もの観客がおり、共演者は全員自分より年上の大先輩ばかり。
失敗は許されないし、視聴者、観客、共演者、スタッフの誰よりも自分自身がそれを許せないタイプであり、よく言えば完璧主義者に違いない。
だからわたしは、いつもよくそのなかで唄えるものだと思わずにはいられないのだ。
歌詩はひたすら紙に書いて覚え、本番ギリギリまで楽屋で練習する。演歌は節回しも独特で、ここに何回こぶしを入れるというように本人いわく版画のように彫り込んでいく作業だというが。
<途中欠落>
わたし自身、彼のCDを聴いて「上手い」と思っていたものの、本気で惹かれるようになつたのは、「旅笠道中」を聴いた瞬間だったのではないかと思う。
そしてその後初めて生の歌唱を聴き、そのあまりにも豊かな声の響きに魅せられ、心身ともに絶好調のときに、彼が発する声色の濃淡、襞がおよそCDにさえ収まるものではないことを知ってしまった。
まさにこの世ならぬ歌声なのだ。
一度その歌声を聴いてしまったわたしは、再び聴きたくて、その歌声を求め続ける運命となった。
これまでどんなときでも何かしらの感動を与えてくれ、一度たりとも失望させられたことはないが、先に書いた神業を目の当たりにするような瞬間はそう何度も訪れているわけではない。
けれども確実にそういう瞬間があり、それは20代の青年が持つ声ではないように感じる。
朗々とこだまし、その歌声は風や雨といった自然が奏でる音を凌ぐものだ。
「白雲の城」の詩吟バージョンを名古屋の中日劇場で聴いたときには、衝撃が突き刺さった。
詩吟部分は録音ではあるが、「春望」を詠んだ杜甫の心境を表出させていた。
遠いどこかの名も知らぬ人里離れた谷間に響き渡り、太古を思い起こさせるような原初的な声。
そしてその声が朗々とこだまする深い峡谷が一瞬にして私の眼前にうかんだのだ。
私は氷川きよしに対して世間一般に使われている「王子」や「若」という呼称は、ほぼその外見にあたえられたものであり、その歌声、魂にはもっとふさわしい呼称があるのではないかと思っている。
いずれ、その風貌が、その歌声や魂と均衡のとれるものになったとき、彼がどんな歌手になり、どんな歌を唄うのか楽しみでならない。
絶えず身一つ。流れ流れて、唄い唄って…。
氷川きよしが唄う限り、ファンのわたしもまた、生涯をかけて、飽くなき歌の道を歩んでいくことだろう。
☆以上です。
手前味噌な上に途中に一部欠落があり、失礼しました。
それにしても、よく残っていて、さらに昨日偶然見つかったなあと驚いています。
メモを見て下書きを入力しながら、きよしさんについて、書いてみたいと思った気持ち、いわば初心をあらためて思い出したのです。