先の記事で、小沢昭一さんのことを近々に書きますと申し上げたのは、2002年にきよしさんと小沢さんが共演されたときの、小沢さんのコメントを、最近知ったからなのです。
そのことはこの記事の後半で書いていきますね。
そして、書く書くと申し上げながら、なかなか進まなかった西條八十のことは、今夜書いてみようと思います。そこには少しデリケートな内容になるかもしれませんが、これまで、わたしが感じてきた、きよしさんの歌詩へのあまりに誠実な思いも書いてみたいと考えています。
さて先月後半から、まとまった原稿を書く仕事があり、そのために自分でストックしている資料のなかからも参考になりそうなものをよりわけているのですが、そのなかには、自分でもあっと驚くものも多々あって。
その最たるものは、自分が書いたHP(きよしさんのです!)の序文になるような文章でした。
内容的に、2005年の夏以降に書いたものではないかと思うのですが、当時はブログというものがまだなく、いつかHPを作って、きよしさんへの自分の思いや、夢のような思い出を書いてみたいという野望(?)を抱いていたのです。
その思いは2002年頃からわきあがっていて、誰かにそのことを伝えたいと思い、ほかならぬきよしさんに宛てて手紙を書かせていただいて、忘れもしない2004年2月に大阪・新歌舞伎座で開催された「草笛の音次郎」の千秋楽の日に持参したのでした。
いずれ、きよしさんのすべてが生きている伝説になると自分が感じていること。
そしてそんなきよしさんの様々な魅力をHPを作って書いてみたいと思っていること。
たしか、すでに「天晴れHK伝説」というタイトルを考えていることなどを書かせていただいたのではないかと思うのですが、HPのイントロを自分が書いていたとは!
かなり恥ずかしいのですが、10年余りよくなくならずにファイルに入ったままになっていて、それをまた今回たまたま見つけられたなあという思いもありましたので、少々手を入れてから、アップしたいと思っています。
では以下は小沢昭一さんの話題です。
以前もこのブログで書いたことがありますが、2002年に渋谷のBunkamuraで開催された第15回 東京国際映画祭で、「ニッポン・シネマ・クラシック」のオープニング・セレモニー(10月27日)のゲストとして、きよしさんは小沢昭一さんと招かれたのです。

第15回記念大会でしたが、
その日は昭和5年に制作された無声映画の傑作 「祇園小唄 繪日傘」が上映されました。
この作品は、「月はおぼろに東山」の主題歌とともにヒットした歌謡映画の原点といわれる貴重なものということでした。

このときの会場はBunkamura シアターコクーンでしたが、チケットはきよしさんの人気ゆえに、この回は即完売になったのですが、お世話になっている映画雑誌の編集長から、なぜ無声映画の上映会のチケットが即日完売に? と、事情を知らない関係者のかたたちが驚いていたことを教えていただきました。
わたしは観覧にいっていて、きよしさんが、「哀愁列車」と「勘太郎月夜唄」の2曲を唄ってくださったこと。
小沢昭一さんがトークコーナーで、「きよしさんの歌は大好き」とおっしゃっていたことを、書きとめてありました。

東京国際映画祭事務局 作品チーム・アドバイザーを務められたプロデューサーの 森岡道夫さんがこのイベントについて、のちのち語っておられるインタビューを最近になって読む機会がありました。
森岡さんの談話は下記のようなものでした。
「青春、映画、唄〜スクリーンを彩ったあの旋律」と題して、主題歌が有名な映画の特集を催しました。
「東京ラプソディ」(1936)、「愛染かつら」(1938)から、戦後を象徴する「東京キッド」(1950)、
歌う映画スター石原裕次郎、加山雄三の主演映画までの8本です。
「愛染かつら」の主題歌は「旅の夜風」ですが、タイトルよりも、”♪花も嵐も踏み越えて”という歌い出しが有名ですね。
「東京キッド」は、少女の美空ひばりが歌う映像をよくテレビで流しているので、若い方でもきっとご存知でしょう。
氷川きよしさんは、「勘太郎月夜唄」(1943年の映画 「伊那節仁義」 主題歌)と、「哀愁列車」(1957年の同名映画主題歌)の2曲を熱唱してくれました。
あまりの歌のうまさに、小沢昭一さんも舌を巻いていました(笑)。

そのときのおふたりの様子です。
何気ないショットですが、きよしさんて、やっぱり共演者のかたを見つめられていますね(喜)。
わたし、森岡さんの談話を読んで、芸能の生き字引ともいえる小沢昭一さんが、きよしさんの歌唱に”舌を巻かれていた”ことをあらためて知ることができ、またわたしが手帳に書きとめていた、きよしさんの歌唱曲に誤りがなかったこともわかって、うれしくなったのです。
ところで今回の資料探しのなかで、20年ほど前に小沢さんが書かれたエッセイを見つけてあらためて読みました。
”おいしい味 懐かしい味”ということで、子供の頃からの好物であるハヤシライスについて書かれているのですが、
むかし、青山杉作先生が、稽古場でふと洩らした言葉が、このごろしきりと私の心のなかによみがえるのですが、しかし、青山杉作という名前も、もうご存知ない方がふえているのでしょうか。<中略>
以前、ある芸能関係の学校の生徒、百人ばかりの前で、古川ロッパという人の、名前だけでも知っている人?
と問いかけたら、ほんの五、六人、では徳川無声は? には二、三人、田村秋子は? にはたった一人しか手が挙がりませんでした。
このお三かたは、それぞれ昭和を代表する喜劇人、話芸者、新劇女優でありますよ。一世を風靡した芸能人でも、たかだか二、三十年で忘れられてしまうとは、まことハカナイ。ですから青山杉作という名前も、きっともう、深い恩恵に浴した者だけが、仰げば尊しとしているだけかもしれません。
青山杉作先生は大正のはじめから新劇ひとすじ。戦後は俳優座で幾多の名舞台を演出。私などは、俳優座養成所で演技の基礎を先生から手とし足とり教えていただき、初舞台も先生演出の舞台でありました。
で、その青山先生が昼めし時の稽古場で、
「先生、昼ごはんは何になさいます?」
と誰かにきかれたのに答えて、
「もう、これといって、食べたいものがなくなりましたねぇ。何でもいいです」
当時、二十代の、「何でも」食べたいさかりの私にとって、この言葉は実にフシギだったのですが、あれから四十年。最近の私も、ナマイキに、おいしいものへの執着が薄くなってきて、「食べたいものがなくなりましたねぇ」の心境がわかるようになってきたのです。
※「小沢昭一的こころ」という番組で、小沢さんの思い出のハヤシライスを探す企画があって、横浜でハヤシライスを食べ歩いたことについて書かれていました。
そして、結びは、
私、実は、以前から、味覚とはつまるところ郷愁だ、というのが持論なんです。子供の時に覚えた味、慣れた味、うまいと思った味。それが一生忘れられずにつきまとうもののようです。おいしい味と懐かしい味とは違うなんていいましたが、もともと私には、懐かしい味がおいしい味なのです。というもので、最後に、番組のためにハヤシライスを食べ過ぎてお腹をこわしてしまい、”やはり食いもの探しはもう止めます”と書かれていました(笑)。
ところで、先日、久しぶりに映画に出演したとき、もう俺流の演技のあの手この手を封じて、今どきの新人のように素朴で無能な表現を! と試みたのですが、若き日に青山先生から教わった演技術から、どうしても抜け出せませんでした。人間は、何事でも、揺籃時代を引きずっているのですね。
この雑誌1994年のもので、母が処分すると言ったものを、わたしが読んでからでいいでしょう? と引き取った雑誌の1冊なのです。
新しい雑誌がどんどん発行されていますが、過去の雑誌も、また新たな発見の宝庫だなあと感じます。
小沢さんは早稲田大学の学生だったときに、俳優として舞台デビューしたのち、舞台、ラジオ、映画、テレビで活躍されますが、一方で、40歳を過ぎてから、日本の芸能史を早稲田大学大学院に特別入学して研究し、放浪芸に深い関心を寄せ、その収集、保存、実践にも力を注がれたそうです。
伝統芸能からストリップまで、芸能のすべてを知り尽くし、理論でけでなく実践者だという稀有な方ですが、2012年12月に旅立たれました。
※小沢さんのエッセイの書き出しを読んでいて、小沢さんの心を感じて、ブログで皆さまにその部分を読んでいただけたらと考えました。
ところでこの機会に資料や雑誌を整理してみたいと思ってきましたが、いろいろな発見があると思うと、簡単には処分できませんね。
ところでこの機会に資料や雑誌を整理してみたいと思ってきましたが、いろいろな発見があると思うと、簡単には処分できませんね。