この記事の後、きよしさんの座長公演を振り返る記事をアップしたいと思い下書きして準備しているのですが、その前に以前から書きたいと思っていた2000年のきよしさんとの”ふたたびの出逢い”についてどうしても書いてみたい気持ちが強くなりました。
融通のきかない性格でほんとうにごめんなさい。
といっても、とてもとても個人的な思いです。
もしそれでもよろしければ最後までお付き合いいただけますと幸せです。
それは明治座さんのHPにアップしている6月の座長公演の製作発表会見のご報告を読んだことと、先日、「氷川きよし節」(文化放送)で久々にきよしさんの唄う「別れの一本杉」を聴いたからでした。
きよしさんは6月2日からの明治座さんでの座長公演の会見で、初めての座長公演からちょうど10年になるという話題になると、
「あの頃(10年前)はよく泣いたな~。
とにかく自分は一生懸命やって、それを皆さんが感じていただければいいなと、毎日必死でした。
徹夜続きで寝てないこともあり、喉に負担がかかってしまって大変だったのを覚えています。
なので今回はできるだけ台詞を早めに覚えて、規則正しく、ストレスを溜めずに頑張ります。この10年の歴史を今回の平次に生かせたらいいですね」
なので今回はできるだけ台詞を早めに覚えて、規則正しく、ストレスを溜めずに頑張ります。この10年の歴史を今回の平次に生かせたらいいですね」
とお答えになっていて、きよしさんのおっしゃった”一生懸命”という言葉が私の心に深く響いたのでした。
さらに先日「氷川きよし節」(文化放送)で「別れの一本杉」がリクエストされ、ラジオから流れてきた時に、その歌唱の中にきよしさんの一生懸命さ、そして命がつまっていることを感じて、感動で心わきたったのです。
そして、そのいずれからも、変わらぬ”氷川きよし”の燃えるような”一生懸命さ”が伝わってきて、感動せずにはいられませんでした。
昨年、お友達のOさんが、きよしさんが2000年にテレビ出演された番組を録画したDVDを貸してくださって、その中にはきよしさんの初めてのテレビ出演の録画も含まれていました。
当時は録画が今のように便利なシステムではなかったので私には見られなかった番組も多々あり、まさに2000年のきよしさんとふたたびの出逢いをさせていただいた気持ちになったのです。
2000年7月に「第33回日本有線大賞」の中間発表があり、「箱根八里の半次郎」がヒット中のきよしさんを”緊急取材!! あなたは「氷川きよし」を見たか?” というタイトルで特集されました。
この時期はまだデビューして半年ほどでしたから、きよしさんのことをご存知ない方のほうが多かったのですね。

スタッフが渋谷の街で、パネル写真を5枚ほど(1枚はきよしさんで、あとはいかにも演歌歌手という雰囲気の方たちでした)用意し、道行く人に「箱根八里の半次郎」の「♪やだねったら、やだね」のさびの部分を聴いていただいて、唄っていると思われる人のパネルを選んでもらうのですが、きよしさんを選ぶ方は一人もいず、唄っているのがきよしさんだとわかると、どなたも”へえー、そうなんですか?” と、とても驚かれていたのです(笑)。
そして元オセロの松嶋尚美さんがレポーターをされ、「氷川きよし」を探して、箱根の芦ノ湖までやってくるのです。
きよしさんはノボリを両手にお待ちになられていました(笑)。

”22歳 おとめ座”と紹介されたきよしさんは、スワンボートを松嶋さんと漕ぎながらインタビューを受けるのです。
この時、芸名の話題になると、10個ほどあった中でいちばん驚いたのが”あっぱれ”だったとおっしゃっていました(笑)。

ちなみにその夏に行われた静岡でのラジオの公開番組を追った時の映像も楽しかったです。
屋外の会場に600人ほどが集まり、ゆかた姿で登場のきよしさん。
うまく着られず3人がかりで着付けをしていただいて、真ん中で見かねて手伝ってくださっているのは田川寿美先輩です。

当のきよしさんはオープニングで唄う「ちゃっきり節」の練習に集中されていました(笑)。

昨年、堺市民会館で開催されたコンサートに参加し、ヤマブキレコードさんに寄らせていただいたことをブログに書かせていただきましたが、「箱根八里の半次郎」の50万枚プレスの御礼キャンペーンを大阪でされた折、デビューキャンペーンでお世話になったヤマブキレコードさんをふたたび8月31日に訪れ、その模様もワイドショーで放送されました。
私はその映像を当時見て堺にいつか行ってみたいと思っていて昨年ようやくかなったのですが、ヤマブキレコードさんはずっときよしさんを応援してくださって、コンサート当日、店内はきよしさんの宣材でうめ尽くされていました。

きよしさんのはっぴをお召しになって接客されていたご主人にご挨拶すると、きよしさんがキャンペーンで乗られたクーラーボックスを持ってきてくださいました。
「クーラーボックスにさわらせていただいても?」
とご主人にことわってから、さわらせていただきました。
私はその時、ずっとずっと逢いたかった2000年のあの日のきよしさんと邂逅したのでした。

このブログの最初に書かせていただいたのですが、私のきよしさんとの出逢いは1999年秋頃でした。
私が当時、週に何日か出入りさせていただいていた会社で、ちょっとした作業をする時に貸していただいていた机に「箱根八里の半次郎」の宣伝プレスやきよしさんのフォトカードが置かれていたのです。
”この茶髪の人は誰かしら?” (ほんとうに失礼なのですが) ”もしかしたらホスト?”なんて思って(笑)。
でもその机の主のことを思うとホストの方の写真をPCのキーボードに立てかけるなんてことはないだろうしと気になって仕方なかったのでした。
机の主とはなかなか会う機会がないまま冬めいてきた頃、ようやく廊下でばったり会ったのです。
いつも机をお借りしているお礼を言い、
”ところで机にある茶髪の人(きよしさんのことをこんなふうに最初は言っていたのですよね・笑)、何なんですか?”と聞き、
そこで初めて、きよしさんが歌手で、これからデビューすること。
その方のお友達が職場できよしさんと一緒に働いていて、苦労してやっとデビューできることになったので口コミもばかにならないから何とかお手伝いしたいという思いで宣材を託されたということを知りました。
その方も宣伝するあてがなく会社の机に飾っておいたのだそうですが、私、
”あの人(ここでもきよしさんのことをそんなふうに言っていました)、歌、上手なんですか?”
とその方にうかがったのです。
その方もきよしさんの歌は聴いたことがなく、でもデビューするのだから歌は上手に決まってるよねと笑い合ったのですが、その方が言ったのです。
「歌は聴いたことがないけれども、人柄のとっても良い方なんですって。だから私の友達も何かできることをしたいって、それであの一式を渡されたんです」
私、このことをこれまで何度か書いてきて今思ったのですが、そのお友達はもしかしたら、その方の彼だったかもしれませんね。
余談ですが14年を経て今なぜだかそんな気がしました。
そこで私には、目の前にいるどちらかといえば控えめで物静かなその方をそこまで動かし、私にその存在や人柄が伝わり、歌手といえば歌が一番の武器であるはずなのに、その歌を聴かずして人の心を動かしていく、”この人って、いったい何者なんだろう?
と、その存在が深く心に刻まれたのです。
当時の私は出版社で編集の仕事をしプライベートと仕事の区別がつかないほど多忙な日々を送っていたので、「箱根八里の半次郎」を聴くことになったのはきよしさんがデビューされた2月2日以降のことでした。

年が明けて2月2日にデビューしたきよしさんをテレビや雑誌で見ていて、アルバムを聴いていたある瞬間、きよしさんの歌声に自分の運命の何かが決まったかのように決定的に魅せられ、そしてハードスケジュールの中、笑顔を絶やさず、一生懸命なきよしさんのことが何だか気になって気になって...。
そしてある日、自分がきよしさんのファンになっていることに気づいたのでした。
これまで時々、それにしてもあの時の出逢いは何だったのだろう?
まだ会ったこともなく声も聴いたことのないきよしさんの何が私に伝わったのだろう?
最初の出逢いを振り返ると漠然としたそんな思いがわいたのですが、昨年、堺に行き、ヤマブキレコードさんを訪れたことを記事に書いたところ、堺に住む一人の方からコメントをいただいて、おかげで私なりの答えを見つけることができたのでした。
その方は、まさに2000年8月31日にキャンペーンのこともきよしさんのことも何も知らずに、堺東の駅にあるヤマブキレコードさんの前をたまたま通りがかったそうです。
”ヤマブキレコードさんの前に人だかりができていて何だろうと思って見ると、あの台(クーラーボックス)に立っているきよし君がいました。
その時はその青年が誰なのか知りませんでしたし、氷川きよしという名前も知りません。
用事があって時間がなかったので人だかりの向こうに立っている姿を見ただけで歌やお話も聞けなかったのです。
でもなぜかその姿がずっと忘れられなかったのです。
なぜならその青年の一生懸命さが伝わってきたから。
オーラ? いえ、オーラと言うよりも、その一生懸命さ、誠実さ、可愛さがその姿を見ただけで伝わってきたのです。”
その方は、その声も歌声も聴かず、きよしさんの名前さえもその時は知らなくても、きよしさんから一生懸命というのはこういう事なのだと教えられて衝撃を受けたのだそうです。
そして辞めようかどうか悩んでいらしたお仕事を、もう少しがんばってみてそれでもだめだったら辞めようという気持ちにきよしさんにさせていただいて、そのおかげで今でもお仕事を続けておられるということでした。
私はその方のコメントを読ませていただいて、私のきよしさんとの出逢いもまた同じだったことを感じたのです。
最初にそのひたむきさ、一生懸命さが何人かの人を介して私に伝わり、そしてまた私もきよしさんと一緒に夢や希望を失わずに歩いてこられたのだということに。
そして、常に進化するその"氷川節”に魅せられ、感動し、そのまなざしに胸ときめかさせていただいて。
でも何よりも素晴らしいことはデビューしてから今日まで、大切なものを守り続けていらしたということでしょう。
そのひとつこそが、いつでも掛け値なしに命がけで熱唱、熱演されるその”一生懸命さ”なのではないかとあらためて私は感じたのです。
皆さま、とてもとても個人的な思いに最後までおつきあいくださってありがとうございます。
堺に行ってから心にわいたこの思いを書いてみずしては何も書けないような気持ちになってしまったのです。
今晩から、座長公演10年間を振り返る記事を2011年に書いたブログをもとにアップできたらと思っています。
さて、最後に2003年7月25日の「中日スポーツ」です。
きよしさんが初座長公演をされるタイミングで、約1ヶ月間、「おーい!追っかけ きよし座長」という連載が掲載されたのです。

担当記者の篠田有美さんは、あこがれのスターが1ヶ月間、同じ場所にいるなら何を知りたいか”とファンの目線で考えて、きよしさんを追ってくださいました。
きよしさんは千秋楽を前に、
「予想以上に楽しかったです。すぐにお客さんの反応が返ってくるじゃないですか。
テレビとかと違って。あー笑ってくれてるとか、喜んでくれてるとか。
逆に僕の方がみなさんから元気をもらってるって感じてました。
だから1か月間、頑張れたんだと思います。
やっぱり客席から”きよしー”って声が飛ぶと、燃えます。
これからですか?
全部、氷川きよしにしたいです。
(記者の日本制覇という言葉を受け)
じゃなくて...。たとえカバー曲を歌っても、氷川きよし色を出したい。
人はどう言おうと、自分らしさを貫いていきたい。
僕がキザに歌ってもね...。
(中略)
本当にありがとうございました。劇場に来られなかった方もたくさんいたと聞きました。
でもみなさんと僕の心はつながっていますから。温かいご声援、心から感謝しています」
この連載は翌日7月26日まで続いたのです。
それでは、またお逢いしましょう。