きよしさんを育ててくださった東京の父である長良じゅん会長が急死されたという訃報に、信じがたい気持ちで、ニュースサイトを調べました。
そうしながら何かの間違いなのではないかしらと何度も思ったのですが...。
日本時間3日午前7時30分(ハワイ現地時間2日午後0時30分)、ハワイのワイレア地区のゴルフ場でラウンド中、カートを運転している時の事故で亡くなられたとのことでした。
毎年、東京国際フォーラムで開催される「きよしこの夜」でそのお元気な姿を拝見していました。
いつもエネルギッシュで、きよしさんの15周年も20周年も30周年もずっとずっと一緒にいてくださるものと当然のように思っていたのに。
皆さまにそのことをお知らせしようと記事を書きながら、長良会長のことを思い出していました。
私が忘れられないのは「チャレンジステージ IN 中野サンプラザ」の終演後のこと。
楽屋に戻るきよしさんがスタッフや関係者の皆さんに挨拶されながら歩いていくのですが、ある部屋からスッと出ていらした長良会長が笑顔できよしさんをねぎらっていたシーンです。
記事を書くのを中断して、そのDVDの映像を見てみました。
ファーストコンサートを見事に成功させ、涙が止まらず泣きじゃくるきよしさんに
「ほいっ、泣かなくていい。ほらぁ、泣かなくていい。みんな喜んでるぞ」
と、おっしゃってきよしさんの肩をパンパンと叩かれていました。
きよしさんの涙がますます止まらなくなると、
「うん? うれし泣きか?」
とおっしゃったのです。
きよしさんが涙声で「はいっ!」と答えると、
長良会長は言葉はぶっきらぼうですが、”うんうん、うんうん”と優しく微笑まれてうなずきながら、
「みんなによく、お礼をな。また後でな」
とおっしゃり、きよしさんは泣きながらも”はいっ! はいっ!”と折り目正しくお返事されていたのです。

私はずっとこの時の長良会長を忘れることはありませんでした。
長良会長がいらっしゃらなければ、私は"氷川きよし”という歌手に出逢えなかったのですから。
長良会長は、私にとっても人生の恩人、これまでずっと尊敬してきたのです。
それから2010年6月29日のことも思い出します。
渋谷C.C.Lemonホール(現在は渋谷公会堂)で開催されたコンサートの"演歌名曲コレクション・リクエストコーナー”で、きよしさんが水原弘さんの「君こそわが命」を歌ってくださったのでした。
この時、長良会長をお見かけしたのですが、村松友視さんの取材で水原弘さんのことを”この世でいちばん好きで嫌いな男”、”唯一世界に出ていかれる歌手だった”とおっしゃっていたことを思い出し、それほどまでに愛された水原さんの「君こそわが命」を、手塩にかけて育ててきたきよしさんが長良会長のいらっしゃるホールで歌うということに、手に汗握るほどドキドキしたのでした。
いつどのタイミングで長良会長は、きよしさんに「君こそわが命」のアルバム収録を認められるのだろう? そして
長良会長はきよしさんのこの日の「君こそわが命」をどんなふうにお聴きになられたのかしら? と思ったのです。
きよしさんがコンサートで「君こそわが命」を歌われたのは、2002年の「きよしこの夜 Vol.2」。
次が2006年の11月29,30日に新宿厚生年金会館で開催された、「ファンクラブ限定 デビュー7周年記念コンサート」でだったと思います。
ちなみにそれ以前には2001年11月3日に放送された「BS日本のうた」(尼崎アルカイックホール)で歌っておられます。
そして何より思い出されるのは2002年のファーストコンサートツアーです。
毎回、きよしさんが水原弘さんのことをお話しするコーナーがあって、正確なやりとりではないかもしれませんが
西寄さんが
「きよし君はこの世界に入るまで水原弘さんのこと、ご存知なかったでしょう?」
というようなことをおっしゃると
「いいえ、知ってます」
と答え、お父さまが水原弘さんがお好きで、お風呂でよく歌っていたので、よく知っているのだというようなお話をされるのです。
そして、「君こそわが命」の出だしをきよしさんが歌ってくださるのです。
「♪あなたをほんとは さがしてた 汚れ汚れて 傷ついて 死ぬまで逢えぬと 思っていたが」
たしかここまでだったかと思います。
たしかここまでだったかと思います。
ここまで歌うと、西寄さんが
「ストップ! 今日はここまでです」
と止めていらしたので、
”今日は”ということはいつかフルコーラス歌ってくださるのかしら? それはいつ? と思ったものでした。
水原弘さんの熱烈なファンだった私の母は、一緒にコンサートに行ってそのやりとりを見て、
「長良社長(当時)のお気持ちがうれしい。
水原弘は幸せだったんだなとあらためて思えたよ。
そしてきっと水原さんは自分が長良社長にお世話になったのに恩返しできなかった分、天国から氷川きよし君を応援してくれているよ。
おかあさん。今日、そう感じたわ。」
と言い、少し涙ぐんでいたのでした。
この年は1年間、毎回毎回、必ずこのやりとりをされていたのではなかったかと思います。
そして満を持して年末の「きよしこの夜 Vol.2」で解禁ということで、歌ってくださったのでした。
私は、その時、ただただ純粋にその歌声に感動しましたし、まだまだ少年のような面立ちのきよしさんの底知れぬ歌唱力に、この方はこれからどれほどの高みに登られるのだろうと、氷川きよしという類まれな歌手と出会えたことに、興奮してカーッとからだが熱くなるのを感じたのです。
「浪曲一代」で、最近、浪曲を披露されているきよしさんですが、あの浪曲は長良会長に手ほどきしていただいたのかしら? と想像し、いつかそのエピソードをお話しくださることを期待していたのですが、その「浪曲一代」が10周年の記念曲として作られたのは、もしかしたら長良会長の悲願なのかしら? と当時思ったのでした。
2004年には「番場の忠太郎」をリリースし、忘れられかけた「瞼の母」をテーマにした楽曲がヒットチャートの上位に位置し、年末の紅白歌合戦で日本中に流れる。そのことにも長良会長のきよしさんに賭けた様々な思いを感じて胸熱くなったのです。
皆さま、何だかこうして長良会長のこと少し書き続けていたくなりました。
長良会長は、きよしさんのデビューを即断した事務所の社長(当時)として一時期はよくテレビに出演されていましたので、どんな風貌の方かご存知の方も多いと思います。コンサート会場で何度かお見かけしたことありますが、テレビで見るよりもずっと迫力があって、魅力的な方でしたので、雪村いづみさんのお母様が、長良会長を知り合いの東宝のプロデューサーに東宝ニューフェースとして推薦されたエピソードも納得できました。
まず、「AERA」(2003.7.7 朝日新聞社)で、岩切徹氏が長良会長について、このような記事を書かれていました。
『長良じゅんは雪村いづみの初代マネージャーであり、不遇時代の水原弘を「君こそわが命」でカムバックさせた伝説的な人物だ。美空ひばりとは「ねえさん」「きょうだい」と呼び合う間柄でもあった。
(中略)
長良はこどものころ浪曲師だった。
『長良じゅんは雪村いづみの初代マネージャーであり、不遇時代の水原弘を「君こそわが命」でカムバックさせた伝説的な人物だ。美空ひばりとは「ねえさん」「きょうだい」と呼び合う間柄でもあった。
(中略)
長良はこどものころ浪曲師だった。
日露戦争前後から昭和20年代まで、日本の近代を圧倒し続けたサブカルチャー。その浪曲も「清水次郎長伝」で一声を風靡した広沢虎造が倒れる58年前後から衰退の一途を辿るのだが、虎造と同じ舞台に立ったこともある長良はその盛衰両方に立ち会ったことになる。浪曲が体に染み付いていないわけがない。この日本人のカタルシスのツボを知り尽くした芸能の本質が義理人情であり、「語り」と「歌」だ。歌に語りの断片としてのセリフやフレーズをはさむアイデアも、だから長良にすれば「ニオイ」で下した即断だった』
長良会長については村松友視さんの「黒い花びら」(河出書房新社)にも書かれています。
『たずねた相手は、長良じゅん氏だった。長良氏は、二十代の若さながら木暮事務所で雪村いづみ、弘田三枝子などのマネージャーをつとめ、長野県下のすべての興行を仕切るなど、その敏腕ぶりが業界にとどろいていた。「哀愁の街に霧が降る」などのヒット曲をもつ山田真二のマネージメントもこなしていた。
長良氏は、水原弘の存在を“のど自慢荒らし”の時代から知っていたし、ロカビリー時代の水原弘とも、ジャズ喫茶の楽屋でよく顔を合わせていた。、長良氏の目には、若いくせにふてぶてしい水原弘の態度が、何となく気に喰わず、あまり好きになれなかった。 長良氏は雪村いづみの初代マネージャーだった。当時、雪村いづみの前歌がフランク永井とウィリー沖山だった。
(中略)
そんな関係で長良氏はジャズ喫茶を根城とする水原弘と顔を合わせたというわけだ。だが、態度が大きく、トレンチコートを袖を通さずに羽織っているような水原弘とは、挨拶くらいしかしなかった。
そんな間柄の長良氏を水原弘はたったひとりでたずねて行った。人間というものは、こっちがきらいなら向うもきらいにちがいない……水原弘と自分の関係をそんなふうに思っていたから、訪問を受けた長良氏はおどろいた。
(中略)
長良氏が、どうしてここまで水原弘の救援に力を入れたのか不思議であるような気もする。二十七歳ながら業界では実力を発揮し、その地位も安定していた長良氏とはいえ、水原弘はあまりにも危険な爆発物だ。下手をすれば、自分も一緒に木端微塵となってしまうかもしれないではないか。それなのに、そこまで長良氏を駆り立てるのは一体何だったのだろう。やはり、同じ匂いを持つ者同士の通い合い……私にはそんな気がするのだ。
(中略)
勝新太郎、石原裕次郎、水原弘、美空ひばり……といったタイプのスターを今に探しても無理というものだろう。そんなスターたちと至福の時間を味わった長良氏は、芸能界のもっとも贅沢な部分を満喫したと言ってもよいのかもしれない。逸材でありながら危険な爆発物である水原弘のマネージメントをこなしたという部分も含めて、である。
(中略)
”人間的には最高の奴だったけどお金の使い方が分らなかったな。でも、誰かが必ずそばにいて、最終的には誰かが必ず救(たす)けてくれるってわけだから、それだけ彼には魅力があったんですよ。あったかいものを持っているって言うのかなあ……。だからね、彼とはいわゆる一心同体の気持ち。同じもの食べて同じように寝てるから、オナラの匂いまで同じになっちゃうんですよ。あれをもう一度やれって言われても、とてもそんな気になれない。何て言うのかな……もったいない。今生きてたら、世界に進出できる歌手ですからね、唯一の歌手ですよ”』
『たずねた相手は、長良じゅん氏だった。長良氏は、二十代の若さながら木暮事務所で雪村いづみ、弘田三枝子などのマネージャーをつとめ、長野県下のすべての興行を仕切るなど、その敏腕ぶりが業界にとどろいていた。「哀愁の街に霧が降る」などのヒット曲をもつ山田真二のマネージメントもこなしていた。
長良氏は、水原弘の存在を“のど自慢荒らし”の時代から知っていたし、ロカビリー時代の水原弘とも、ジャズ喫茶の楽屋でよく顔を合わせていた。、長良氏の目には、若いくせにふてぶてしい水原弘の態度が、何となく気に喰わず、あまり好きになれなかった。 長良氏は雪村いづみの初代マネージャーだった。当時、雪村いづみの前歌がフランク永井とウィリー沖山だった。
(中略)
そんな関係で長良氏はジャズ喫茶を根城とする水原弘と顔を合わせたというわけだ。だが、態度が大きく、トレンチコートを袖を通さずに羽織っているような水原弘とは、挨拶くらいしかしなかった。
そんな間柄の長良氏を水原弘はたったひとりでたずねて行った。人間というものは、こっちがきらいなら向うもきらいにちがいない……水原弘と自分の関係をそんなふうに思っていたから、訪問を受けた長良氏はおどろいた。
(中略)
長良氏が、どうしてここまで水原弘の救援に力を入れたのか不思議であるような気もする。二十七歳ながら業界では実力を発揮し、その地位も安定していた長良氏とはいえ、水原弘はあまりにも危険な爆発物だ。下手をすれば、自分も一緒に木端微塵となってしまうかもしれないではないか。それなのに、そこまで長良氏を駆り立てるのは一体何だったのだろう。やはり、同じ匂いを持つ者同士の通い合い……私にはそんな気がするのだ。
(中略)
勝新太郎、石原裕次郎、水原弘、美空ひばり……といったタイプのスターを今に探しても無理というものだろう。そんなスターたちと至福の時間を味わった長良氏は、芸能界のもっとも贅沢な部分を満喫したと言ってもよいのかもしれない。逸材でありながら危険な爆発物である水原弘のマネージメントをこなしたという部分も含めて、である。
(中略)
”人間的には最高の奴だったけどお金の使い方が分らなかったな。でも、誰かが必ずそばにいて、最終的には誰かが必ず救(たす)けてくれるってわけだから、それだけ彼には魅力があったんですよ。あったかいものを持っているって言うのかなあ……。だからね、彼とはいわゆる一心同体の気持ち。同じもの食べて同じように寝てるから、オナラの匂いまで同じになっちゃうんですよ。あれをもう一度やれって言われても、とてもそんな気になれない。何て言うのかな……もったいない。今生きてたら、世界に進出できる歌手ですからね、唯一の歌手ですよ”』
さらに「雪村いづみ物語」 大下英治(平凡社)の“初代マネージャーの献身“の章でも書かれています。
『木暮事務所で雪村いづみのマネージャーとなる長良じゅんは、昭和13年3月10日、東京新橋で生まれた。雪村いづみよりも一歳年下である。
長良が芸能界にかかわりをもったのは小学校のときからである。育ての親であり義父である市川勘一は長野県の大興行主である。北海道の本間興行、神戸の神戸芸能、下関の籠寅組と同じように、長野県の興行を一手に仕切る市川興行社を経営していた。
長良は、義父の手伝いとして、サーカス、ろくろ首、河童などの見せ物をはじめとした仮設興行のポスターを、糊を入れたバケツを持って電柱に貼ってまわった。
長良は昭和31年の18歳のとき、春日八郎、三橋美智也、江利チエミ、美空ひばり、雪村いづみなどの多くのスターの興行権を得ていた美勝会に所属し、雪村いづみの担当となったのである。
長良は、雪村いづみが長野県でステージを開くときには、長野市であろうと松本市であろうと飯田市であろうと、南北に長い長野県のどこにでもついていった。』
『木暮事務所で雪村いづみのマネージャーとなる長良じゅんは、昭和13年3月10日、東京新橋で生まれた。雪村いづみよりも一歳年下である。
長良が芸能界にかかわりをもったのは小学校のときからである。育ての親であり義父である市川勘一は長野県の大興行主である。北海道の本間興行、神戸の神戸芸能、下関の籠寅組と同じように、長野県の興行を一手に仕切る市川興行社を経営していた。
長良は、義父の手伝いとして、サーカス、ろくろ首、河童などの見せ物をはじめとした仮設興行のポスターを、糊を入れたバケツを持って電柱に貼ってまわった。
長良は昭和31年の18歳のとき、春日八郎、三橋美智也、江利チエミ、美空ひばり、雪村いづみなどの多くのスターの興行権を得ていた美勝会に所属し、雪村いづみの担当となったのである。
長良は、雪村いづみが長野県でステージを開くときには、長野市であろうと松本市であろうと飯田市であろうと、南北に長い長野県のどこにでもついていった。』
ここまで書いてきてもまだ信じがたく、あまりのことに悲しいのにそのことが自分でよくわからないのです。
長良会長にはただただ感謝の思いでいっぱいですが、
あまりに早い、そして突然すぎるお別れに、なぜ、どうしてという思いがつのり、今の自分の気持ちを表す言葉がうかびません。
今は、心よりご冥福をお祈りします。