徳光さんのラジオ番組でのきよしさんのトークの続きです。
何度聞いても、感動してしまいます。
ぜひ皆さまにきよしさんの言葉を届けたいという思いでいっぱいになったのです。
 
《続きです》
「東京に行って家を探したり。
やっぱり飛行機代ってお金がかかるじゃないですか。
移動の資金も親戚や両親に工面してもらって。申し訳ないなと思いながら」
――でももう飛行機に乗った時は、これで帰る時はやっぱり凱旋しなければって。
「それは思いましたね」
――あったのね。それはね。
「はい。でももう帰れないっていうのも、あったんです。どっかに。もう海外くらいのレベルだったんです、東京が」
――いいねえ(笑)。 
「羽田に着いてモノレールに乗るじゃないですか。 母が(出掛けに)手紙をくれてて。その手紙を飛行機の中で開けきれなかったんです。どんなこと書いているのかなと思って。
羽田から浜松町までモノレールの中で一人で手紙を開けたんですよ。ばあーっとめくったらもう今まので思い出がいっぱい書いてあったんですよ。
”  18年間、こんなことがあったね。保育園の時は清志は私の自転車の後ろに乗って”とか。共働きだったからいろいろな思い出を綴ってて。
”これから一人で生活して、水道・光熱費も自分で払わないといけないし(笑)、食べ物も自分で自己管理して洗濯とかもちゃんと自分できできる(ように)”とか、いっぱい書いてあって...。
最後に”18年間育てた母より”って書いてあったんですよ。
そこを読んだ時に、ぶわーっと泣いちゃって。
(モノレールの中だったので)周りに人はいるんですけど。
僕って18年間母に育ててもらったんだーって、あらためて親のありがたみを感じたというか」
―― すごいね、それは。と同時に、これは成功しなければって気持ちもあっただろうね。
「ありました。やっぱり親のために。親という存在が離れてみて、ほんとうに大きな存在に見えたというか」 
――かわいがられていただろうしねえ。その手紙が原点かもしれないね。
「そうですね。 今も大切にしています」
 
――それで水森先生のところにたどりつくじゃないですか。そこからは門下生として毎日トレーニングを積んで?
「 3年半レッスン時代がありまして。18歳から22歳まで。アルバイトを週に5日して、レッスンは週1回ある時もありましたし、ない時もありましたけど」
――どういうアルバイトしていたの?
「飲食店でやってました。ウェイターと厨房とか。
やっぱり飲食店の方がまかないが出ると思って。お金があまりかからないだろうなと思って。自分も考えて飲食店に勤めまして」
――給料どのくらいその頃は。 覚えてます?
「12万円とかですかね」 
――じゃあもう家賃でいっぱいですよね、東京では。
「そうですね。精一杯でしたねー」
――そういう中で3年半修業するわけだ。 どこをどういうふうに水森先生は指導するんですかね。
「歌のレッスンは 発声練習だけが1年間続きまして。2年目から 懐メロを覚えてレッスンしていくという感じだったんですよね。
それと人として大切なこと(を教えていただいて)。 たとえばご馳走になった方に対して、翌日午前中にお礼の電話をして、”昨日はご馳走になりました。ありがとうございましたって言うようにしなさい”
(というような)それまでやらなかったこと、大人の常識というかそういうことを教えていただきました。
”遅刻をするな、10分前に来いとかそういうことを」
――それは今でも守っているもんね。 きよし君はね。
「はい(ちょっと口ごもって?笑)」 
――そこのところはね。だからやっぱり多くの人たちに好かれるっていいましょうかね、多くの人たちから支持を得ているっていう気がするんですけどね。
「マネージャーさんが今ちょっと笑ってましたけどね(笑)。10分前で(笑)」
 
――デビュー曲が、「箱根八里の半次郎」という。これはもう股旅ものを書ける先生が松井由利夫先生しか当時いなかったにもかかわらず、その先生の詩で水森先生のメロディで。これは、もらった時はどうでした? 
「僕らの世代はやっぱり股旅の世代ではないので」
――そうだよね、股旅なんて字、読めないよね。
「猫のえさとぐらいしか思っていなかったんです。それは知識的には知っていたんです。
わからなかったので映画を見たりして、勧善懲悪の世界で弱い人を助けて悪い人を懲らしめるという世界観が、ああいいなあと。正直、本当は僕はもうちょっとしゃれた歌謡曲にあこがれていたんです。ムード歌謡っぽい
”♪ガラスの心が何とか~”(笑)みたいな感じの? そういう曲がいいなあと思っていたんですけど、
”そういう曲がいいです”と、先生に以前言ったら”生意気なことをい言うな”って怒られたことがあって。
でもやっぱり自分の曲をいただいた時は感動しましたね(しみじみとそうおしゃっていました)。
たったひとつの自分の曲なんだーという喜びと...」
 
――この時はもうすでに長良音楽事務所に入っていたの?(きよしさんの”はい”と言う返事を受けて) 
長良さんとの出逢いは?
「さまざまな事務所の社長さんに水森先生が テープを送ってくださって。
 5、6社あったんですけど、なかなか決まらなくて。次こそは決まると思って事務所に送ってくださるんですよね。
”今度は大丈夫だろう”って。”清志、次はデビューできるぞ”って言ってくださるんですけど、なかなか若手男性演歌歌手というのがデビューしても難しかったみたいで。
――時代が”若手演歌歌手っていうのがまったくなかったからね。氷川君がデビューした今から12、3年前は。それでそういう中で?
「これで、この事務所でだめだったら、先生に”もうおまえ、演歌やめろ”って言われたんですよ。
僕もそう思っていたんですよ。これ以上、先生に面倒見てもらうのも申し訳ないと思って。3年というのを自分の中で目途にしていたんです。”石の上にも三年”という言葉も知っていたので(静かに笑って)。
最後の賭けで、今の事務所の長良会長(当時は社長)のところまで行って、水森先生のギターで「雪の渡り鳥」とか「一本刀土俵入り」とかを歌って。
歌った後、会長が即その場で、”よし、うちでやろう”って言ってくださって。 
”えっ?”てなって。
いや、本当かな? 本当にデビューできるのかなあ? と思って...。 
帰りに水森先生の車に乗せていただいたんですけど、先生が泣いているんですよ。
”山田清志、よかったなあー。デビューできるなあ”って言われて。
”いや、嬉しいです。 でも本当ですかねー”という感じになっていたんですけど」
――その時、これで社会人になったかなみたいな?
「いや、まだなかったです。正直、まだ断られるかもしれないと思っていて確信ではなかったんですよ。紙に書いたりしているわけではないですし。ただ言葉だけのものじゃないですか。
それで事務所に通うようになって、あっ、何かこう少しずつ近づいてきてるかなみたいな。
事務所に通って電話番をしたり事務のお手伝いをしたり。当時は廣済堂プロダクションっていって赤坂に事務所があって」
――山川豊さんに会ったり?
「はい。山川さんに会って緊張して。すごいスターだあと思って。
 見るものすべてが、芸能界ってこういうところなんだーと思って。圧倒されていましたね」
  
――だんだんそうやって歌手としての第一歩を歩み出して、これからはデビューじゃないですか。今度は芸名はですよね。芸名は会長がお付けになったんですか?
「会長が北野武監督と交流されているみたいで、北野監督に付けていただきました」
――ビートたけしさんて、あんまり氷川なんて付けないでしょう? ガダルカナル鷹とかつまみ枝豆とかね
「いろんな名前があったんですよ(笑)。”天晴きよし”とか。
――(笑)
「”天晴きよし”が一番インパクトありましたよね(笑)」
――はあー。(笑・笑・笑!!!)。”天晴きよし”だったら、俺、今日ないと思うな(笑)。
「そうですか(大真面目な様子で)。でも何かその名前を見た時はキャラをちゃんと作らないといけないかなあと思っていました。”天晴れですぅー!”っみたいなノリじゃないですか、響き的に。
でも どんな名前を付けていただいても、北野監督からいただいた名前であれば」
――それはそうだよねー。どうして氷川になったんですか?
「事務所が赤坂の氷川神社の近くにあったんで」
――氷川神社の氷川から取ったんだ。その後、芸名が付いて、「箱根八里の半次郎」が大ヒットするじゃないですか。
「(思わず小声で)おかげさまで」
―― ビートたけしさん、(言い換えて)北野監督とはお話になった?
「はい。デビューしてすぐの時にテレビの1時間番組の中でほとんど1時間近くを使って僕の特集とういうか。北野監督と志村けんさんがキャンペーンをしてくださる企画で、僕のCDをレコード屋さんの一番に置くという、強引に。ある歌い手さんのCDの上に僕のCDをバーッと乗っけて(笑)。それでキャンペーンをして。
それで新宿のアルタの東口のステージ(ステーションスクェア)で歌って、一般の人がいっぱい集まってくださって。
”氷川きよしっていうのがデビューしました! みんな応援してくれー!”みたいな感じで、北野監督と志村さんが”氷川きよし”のチラシを大量に配ってくださったんです。
みんな北野監督や志村さんからいただくと嬉しいからチラシを受け取るじゃないですか。それですごく盛り上がったという感じがしましたよね。 
僕はもう、それまでずっとテレビで見ていた方だったので、 そんな方がね、どこの誰だかわからない青年に力を貸してくださったということが本当に嬉しかったですし。ご恩返しできるようにこれから歌手として結果を出して行こうという思いになりましたね」
 
※ここで文字数と時間がいっぱいいっぱいになってしまったので、この後3つ目の出逢いは次の記事で書きますね。
見直しができていないのでミスタッチ&変換ミス、後日修正しますのでお許しください。