ご来訪ありがとうございます。皆さまのおかげで来訪者数が先日12万人を超えました。ありがとうございます。最近の思いはこの前の記事の方に近況と一緒に書かせていただきましたが、私自身、初心を忘れずという思いで、今回はきよしさんのこととは少し離れてしまう内容になるかもしれませんが、以前から皆さんにお伝えしてみたいことでもありましたので、この機会に書いてみたいと思います。

今年2009年、きよしさんはデビュー10周年を迎え、全国ツアーを行いましたが、その折々、ご挨拶の中で”北野武監督に”氷川きよし”という名前を付けていただいて”とおっしゃっていましたが、私はきよしさんが”北野武監督”あるいは”世界の北野武監督”とおっしゃる度に、個人的なことではありますが、ある感慨が胸をよぎりました。

この記事のタイトルに付けた”名付け親はビートたけし”は、私が初めて目にしたきよしさんのことが書かれた新聞の記事(日刊スポーツ)の見出しです。
実はその記事をスクラップしていないので日付がわからないのですが、このブログの最初の頃に書いた「氷川さんとの出会い」にあるように、まだ演歌歌手がどういうものなのかもよくわからなかった私が、知人が、その友人のアルバイト先の同僚(きよしさんのことです!)が歌手デビューするということで、預かってきたきよしさんの『箱根八里の半次郎』のリーフレットを、たまたま目にしてその存在と名前を知り、その後、日刊スポーツの記事を見て、ああ、氷川きよしさんという名前はビートたけしさんに付けていただいたのだと知ったのでした。

きよしさんのデビュー時は、まだ”北野武”より”ビートたけし”の方が認知度が高かったのです。北野武監督は1989年に「その男、凶暴につき」で監督デビューし、「3-4X10月」、「あの夏、いちばん静かな海。」、「ソナチネ」、「みんな~やってるか!」と作品を取り続け、バイク事故で再起不能ともいわれる負傷。けれどもそれらを乗り越えて復帰され、撮られた作品が「Kids Return」でした。

私は90年代はある出版社の社員として単行本を作る編集者として働いていました。上司がユニークな方で「面白そうだな、やってみなさい」と、新人の私に今思うと随分冒険をさせてくださったものだと思いますが、その時はばちあたりなことによく不平不満も言っていました。
まだまだ編集者として新人だった私ですが、ぴあで活躍されてきた映画プロデューサーの方が、”これからの日本映画を担っていくと期待、信頼する俳優さん、監督さんと映画について語りながら、日本映画の未来を考える”という内容の単行本を作ることになりました。
いわゆるインタビュー集になるのですが、その人選の中で、プロデューサーの方が「北野武さんとは面識はないけれども、僕は彼の映画を観て、どうしても話を聞きたいと思ったんです」とおっしゃるので、まずは正面突破しか方法がなかったので、オフィス北野に電話をしてみました。その当時の北野武監督といえば各テレビ局の看板番組をいくつも抱え(今もお忙しいことには変わりはないと思いますが)、そこに新たな仕事をどう入れるのだという超過密スケジュールでした。
ですから事務所は”仕事を断るのが仕事”のような状況でしたし、まだ映画の世界の方たちとは交流がなかった時期だったのだから仕方ないのですが、まさに”けんもほろろ”という言葉はこういうことだったのかと思うようなお返事でした。
今でも取材の時の依頼方法はほぼ変わりませんが、まず電話をしてそして担当者のお名前を確認し、企画書をFAXかメールするという方法なのです。
雑誌なら新創刊でない限り、すでに見本としてお見せできる見本誌があるのでもう少しスムーズですが、単行本はこれから作るのでお見せできるものもなく、企画書が命なのです。
私はそのプロデューサーの方の並々ならぬ映画そのものへの情熱。そして北野武監督の映画をいち早く認め、監督として尊敬の念を抱いている。その思いをちゃんと伝えることができれば、絶対に取材を受けていただけるはずだと理由のない確信を抱いていました。そして先方が断らない限り、こちらも発刊ギリギリまで待つことにしようと1週間に一度、感触を電話でうかがうことにしました。最初はとりつくしまもありませんでしたが、ある日、遂にデスクの方に「いつまでに他の方の取材を終える予定なのですか?」と聞かれました。内心、やった!と思いながら、実際の予定日をお伝えし、でも「取材を受けてくださるのでしたら、できる限りお待ちします」と付け加えました。
それからは1週間に1回の電話は中止し、そろそろすべての監督の取材日程が決まった頃に電話をしました。するとそこで初めて、正式に取材承諾の返事をいただくことができました。
そしてある日、「オフィス北野さんからです」と電話が入りました。よくテレビでお見かけしていた社長の森さんからでした。もう10年以上経っていますが、「大変お待たせして申し訳ございませんでした」
という森さんの第一声をはっきり覚えています。
さらに「この話は、もう本人にも伝わっておりますのでね」
とこちらを安心させるようなことを言って下さったのでした。
そして具体的な日時と、撮影の合間を縫って時間を確保したので、撮影中の某テレビ局近くに取材の場所を用意してほしいことなどを話されました。
「それでは詳細が決まりましたら、事務所の方に詳細をFAXして下さい」
そこで、私にはまだクリアしなくてはならない問題がもうひとつあったのです。
「恐れ入ります、ギャランティのことなのですが、」
とあわててうかがおうとしました。そうです。私のほうにも予算があります。いくらでもというわけにはいかないのです。雑誌だったら規定があるので、暗黙の了解のような部分があるのですが、単行本ですので、やはり最初にはっきりしておかなければならないのです。
森さんは、私が最後まで言い切らないうちに、
「他の皆様と一律でけっこうでございます」
そうおっしゃったのです。
「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします」
きっとそんなことを言ったでしょうか。自分のことはあまり思い出せません。でも嬉しくて、さっそく上司に報告し、そして著者であるプロデューサーの方に電話をしたのでした。

取材当日、北野武監督は真っ白なワイシャツ姿でいらしてくださり、まず写真撮影をし、その後、映画への思い、監督としての試行錯誤等、心の内を驚くほどに率直に語ってくださいました。聴き手であるプロデューサーの方の誠実なお人柄もあってのことだったと思うのですが、素晴らしい取材となりました。
その日は森さんは別件の仕事があり、同行されなかったので、お会いすることはできなかったのですが、いつかお会いしたらきちんとお礼を申し上げたいと思ったのでした。

さて実は私にはさらにもうひとつ仕事が残っていたのです。私がカバーの見本を提出したところ、営業部と広告部がそろって”北野武”ではなく、”ビートたけし”の名前で収録してほしいと言ってきたのです。最後の難関でした。私も営業部や広告部の言うことはよくわかりました。書店さんでの扱いなども含めて、”ビートたけし”としたほうが扱いが全然違うはずなのです。それは当たり前のことなのですが、でも監督名を”北野武”とされているお気持ちを考えれば、なんとしても”北野武”にしたい。それは私の譲れないこだわりでした。実は事務所さん側はどちらでもかまわない様子だったのです。
人間、本当にそうしたいと思うと、何かしら知恵が浮かぶのでしょうか。直接、事務所とやりとりしているのは私だけなのですから、どうとでも言えると、はたと気づいたのです。
「監督として取材を受けたのですから、”北野武”として掲載することを条件にして交渉してきて、ギャランティもいくらかも聞かずに一律でと取材を受けて下さったんです。今さら変更できません。」
と堂々とウソを言ってしまいました(時効だとは思いますけど、ウソついてごめんなさい)。

そんな思い出があったものですから、きよしさんがコンサートで”北野武監督”とおっしゃるのを聞いていて、”ビートたけし”と”北野武”。どちらにするかで、最後の最後でもめたこともあったなあと、新人編集者時代の自分のことが思い出されるのでした。

その後、北野武監督の取材で社長の森さんにお会いする機会がありました。それはまた別の機会にお話しさせてください。