8日に、氷川きよしさんの歌う「長崎の鐘」を聴き、その感動を胸に9日を迎えました。
氷川きよしさんが長崎で歌う「長崎の鐘」を聴きたいと思って、長崎ブリックホールに行ったのは2007年末のことでした。長崎には初めて行きましたので、平和記念公園や原爆資料館を見学し、あまりにも美しい長崎港を眺めながら、60数年前にこの地で、そんな恐ろしいことが起こったこと、ささやかかもしれないけれども幸せに暮らしていた人々の命が一瞬にして奪われた残酷さを生まれて初めて実感したのでした。

長崎市平和・原爆HP
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/japanese/index.html


その時に知った「長崎の鐘」のこと、興味のある方はよろしかったらお読み下さい。

ちなみに下記HPで「長崎の鐘」の鐘の音を聞くことができます。
「世界名鐘物語」・(株)日本カリヨンセンター
http://www.carillon.co.jp/nagasaki.htm


「長崎の鐘」は現在も、5:30、12:00、18:00の1日3回鳴らされているそうです。

【長崎の鐘・そして永井隆博士のこと】

1945年8月9日11時2分に長崎に原爆が投下されました。陸軍の師団と兵器工場があった小倉が原爆の第一目標地だったそうですが、当日の小倉の上空は曇りで視界が悪く飛行不能だったそうです。当時は有視界飛行しかできなかったのです。そのため第二目標の長崎に変更になったということでした。

「長崎の鐘」とは長崎原爆の爆心地に近い浦上天主堂にあった「アンジェラスの鐘」のことで、原爆で崩壊した瓦礫の中から出てきた唯一の天主堂の証でした。「アンジェラスの鐘」は、左塔の方は衝撃波で25mも吹き飛ばされて大破したのですが、右塔の鐘が奇跡的に瓦礫の中から無傷で掘り出されたのです。

「アンジェラスの鐘」が「長崎の鐘」になったのは、長崎医科大学放射線科部長だった永井隆博士が「長崎の鐘」を著したことによるそうです。
「長崎の鐘」は24年に米軍から発行が許可され、大きな反響を呼び、ベストセラーになりました。
そして同年、「長崎の鐘」という歌も生まれました。永井博士が書いた「長崎の鐘」と博士の被爆の半生をサトウ・ハチローさんが詩に詠み、古関裕而さんの作曲、藤山一郎さんの歌唱によりレコード化され、大ヒットしました。サトウ・ハチローさんご自身も弟さんを原爆で失ったのだそうです。

歌詞に「♪こよなく晴れた青空を、悲しと思う切なさよ」とあるように、その日は、朝から快晴でした。永井博士は長崎医科大学で研究に没頭していたところ、11時2分、窓の外が白昼の日光よりも明るく、ピカっと光り、耳を聾する轟音と猛烈な爆風、衝撃波に見舞われました。病院の建物は崩壊し、永井博士も重傷を負いましたが、次々と運び込まれてくる重症の人々の治療に明け暮れて、数日が経ち、あまりの非常事態にそれまで家のことを思い出さなかったのですが、急に「家はどうなっているんだろう?」と奥様の安否も気になり、すぐに自宅に駆けつけると、自宅があったはずのところには瓦礫のほか何もなかったのだそうです。懸命に探していたら台所だったところの隅のほうに小さな黒い塊を見つけ、それが奥様の骨盤と腰椎の一部であることに気付き、その脇には奥様がいつも身に付けていたロザリオがあったのだそうです。
 
いくら非常事態で救急患者が運び込まれ、息つく暇も無かったとはいえ、なぜ自分は妻のことを忘れてしまったのか、なぜ直ぐに帰らなかったのかと、博士は自責の念にかられるのです。
後に如己堂(にょこどう)で、原爆の悲惨さを書き残す決心をし、白血病に蝕まれた体に鞭打って、「長崎の鐘」「この子を残して」「ロザリオの鎖」などを書き残し、奥様に遅れること5年9ヶ月。博士もまた旅立ったのでした。

長崎の鐘」の二番の「召されて妻は天国へ 別れて一人旅立ちぬ 形見に残るロザリオの 鎖に白きわが涙」には、そんな経緯が、
そして四番の「心の罪を打ち明けて 更け行く夜の月澄みぬ 貧しき家の柱にも 気高く白きマリア様」では如己堂での生活が詠まれているのだそうです。

長崎市永井隆記念館 如己堂HP
こちらに永井博士の奥様、緑さんのロザリオが展示されています。原爆資料館にも熱線で熔けかかって固まったロザリオがあり、胸がつまりました。
http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/nyokodou/

9日に行われた平和祈念式典で、現在も修学旅行生たちに被爆体験を語る活動を続けておられる女性が「あのような地獄の思いは私だけでたくさん。あんな思いはもう誰にもしてほしくない」とおっしゃっているのを聞いて、涙が出ました。何と深い愛情でしょう。信念でしょう。

氷川きよしさんに導かれて行った長崎でしたが、私に多くの忘れられない体験をさせてくださったのでした。年内には広島にも行こうと思っています。