きよしさんと松井由利夫先生の年齢差は52歳。きよしさんと松井先生の生きてきた時代は半世紀も離れていて、かなりのジェネレーションギャップがある一方、人間としての資質、価値観には相通じるものが多かったように、きよしさんが折々に語られた松井先生のエピソードから想像されます。
人の縁とは不思議なものだと、きよしさんと松井先生を通じてまた再認識させられたのですが、音楽プロデューサーの岡賢一氏の「流行歌は人を救えるのか」(アミューズブックス)という著作の中に、きよしさんと岡プロデューサーの対談が掲載されています。
そこで岡プロデューサーが「箱根八里の半次郎」が誕生するまでの経緯について語られています。お読みになった方にはご存知の内容になりますが、きよしさんの声が股旅モノに向いていると感じ、それまでの実体験をふまえたリサーチとカンで、きよしさんのデビュー曲は股旅モノで行くと提案し、決まったものの、まだスタッフの中には懐疑的な意見も多く、股旅をベースにしつつももっとわかりやすい現代的な内容の歌にしたほうがいいんじゃないかという意見が多かったこと。けれども岡プロデューサーは股旅モノをやるなら、本物でなくてはだめだと思って、松井先生に作詞を依頼することにしたというようなことをお話しされています。
以下、岡プロデューサーときよしさんとのやりとり(一部)です。
岡 「(前略)歌詞は本物でなくちゃ人の心が掴めない。それで股旅モノといったらこの人、という松井由利夫先生に作詞をお願いすることにしたんです。でも松井先生に『誰が歌うの?』と聞かれても、氷川君だとは明かさなかった」
氷川「それはなぜですか?」
岡 「氷川君の年齢を言ったら、松井先生は『こんな難しい言葉は、彼には合わないだろうな』って考えて、本物の股旅モノはできないと思ったから。(後略)」
氷川「僕は岡さんのそんなお考えも知らずに、股旅モノで行くにしても、もっと自分らしく表現できるような方法はないかと思っていたんです」
岡 「それで、あの『やだねったら、やだね』のフレーズが生まれたんだよね。若い歌手がマジに股旅モノを歌ったって窮屈なんじゃないかってスタッフは考えていて。それで悩んでいたら、水森先生から『やだねったら、やだね』のアイディアがポッと出た。それを松井先生が採用してくれたんだよね」
氷川「『やだねったら、やだね』を聞いた時、僕らしいなと思いました。若さがあって、あっけらかんとしていますしね。それに、誰もが口ずさめる言葉で、幅広い年齢の方に受け入れてもらえるんじゃないかと感じたんです」
お二人の対談はこの後、まだ続くのですが、世代を超えてコミットし、そのジェネレーションギャップから生まれるエネルギーを創作に向けていくことの素晴らしさをこの対談から感じました。そして今、あらためて、このような経緯で、運命の縁の糸に結ばれて、きよしさんは松井先生にデビュー曲の詞を書いていただいたのだなあと思います。
少し前に観たジョン・ウィリアムズという方が作られた「いちばん美しい夏」(2001年)という映画を思い出しました。主人公の女子高校生・直美には両親も持て余し気味。彼女は親の言うことなどまったく聞かないし、わかり合える友人もいない。そんな直美がある事情でひと夏を田舎の親戚の家ですごすことになり、そこで軽い痴呆を患うひとりの80歳近い老婦人(南美江さんが演じています)と出会います。老婦人は時々、わかのわからないことを言ったりもしますが、直美の思いをごく自然に受け止めてくれ、二人は次第に心を通わせていきます。直美は「老婦人と同じ時代に生まれていたら、きっと親友になっていただろうな」と、そんなことをふと思ったりします。
そんな二人が映画の後半で実際にこんなやりとりをします。
老婦人が「私たち、もっと若い頃に出会っていたら、仲良しになれたのにね」と言うと、直美は「今でも仲良しでしょ」と言うのです。
そんな映画での二人のやりとりが、きよしさんと松井先生と少し重なって思い出されました。
生まれた時代が半世紀以上離れているのに、こうして出会うことができ、お互いの人生に大きく関わることができたということは、奇跡のような尊い縁なのでしょうね。でも、きよしさんと松井先生との出会いのように劇的な出会いではなくても、私たちの日々の多くの方との出会いも、”縁の糸”で結ばれた尊いものなのでしょう。そんなことをきよしさんにまた教えていただきました。
松井先生とのお別れの悲しさは、これだけ記事を書いても薄らぐものではありませんが、私も日々の生活、出会いに感謝して、がんばっていこうと思います。そしてきよしさんとの出会いにより感謝して、その歌声を聴き、心をこめて応援していきたいと思います。
松井由利夫先生、たくさんの素晴らしい作品と思い出をありがとうございました。先生のことは生涯忘れません。先生、どうかいつまでもきよしさんを天国から見守っていて下さい。
ご冥福を心からお祈りします。合掌。
松井先生の追悼について3つに分けて書かせていただきました。松井先生が”氷川きよし”と実際に会い、そして「箱根八里の半次郎」の大ヒットを受けて作詞された「箱根八里の半次郎~風雲編~」の歌詞で結びたいと思います。詳しい制作背景はよく知らないのですが、その後の「箱根八里の半次郎」を描かれたものとうかがいました。
「箱根八里の半次郎~風雲編~」
作詞・松井由利夫
作曲・水森英夫
月の湯の沢 霧立つ朝は
後ろ髪ひく 花すすき
浮世投げ節 三すじの絃(いと)が
切れりゃ涙の ほととぎす
やだねったら やだね
やだねったら やだね
箱根八里の半次郎
戻り馬かよ 馬子衆の鈴が
八里山坂 風になる
男 片意地 真平御免
人情(なさけ)振分 三島宿
やだねったら やだね
やだねったら やだね
どこへ飛ぶのか 渡り鳥
袖を七分に 手甲脚絆
いつか流れて ひと昔
おぼろ霞の 権現さまに
片手拝みの 詫びを入れ
やだねったら やだね
やだねったら やだね
箱根八里の半次郎
人の縁とは不思議なものだと、きよしさんと松井先生を通じてまた再認識させられたのですが、音楽プロデューサーの岡賢一氏の「流行歌は人を救えるのか」(アミューズブックス)という著作の中に、きよしさんと岡プロデューサーの対談が掲載されています。
そこで岡プロデューサーが「箱根八里の半次郎」が誕生するまでの経緯について語られています。お読みになった方にはご存知の内容になりますが、きよしさんの声が股旅モノに向いていると感じ、それまでの実体験をふまえたリサーチとカンで、きよしさんのデビュー曲は股旅モノで行くと提案し、決まったものの、まだスタッフの中には懐疑的な意見も多く、股旅をベースにしつつももっとわかりやすい現代的な内容の歌にしたほうがいいんじゃないかという意見が多かったこと。けれども岡プロデューサーは股旅モノをやるなら、本物でなくてはだめだと思って、松井先生に作詞を依頼することにしたというようなことをお話しされています。
以下、岡プロデューサーときよしさんとのやりとり(一部)です。
岡 「(前略)歌詞は本物でなくちゃ人の心が掴めない。それで股旅モノといったらこの人、という松井由利夫先生に作詞をお願いすることにしたんです。でも松井先生に『誰が歌うの?』と聞かれても、氷川君だとは明かさなかった」
氷川「それはなぜですか?」
岡 「氷川君の年齢を言ったら、松井先生は『こんな難しい言葉は、彼には合わないだろうな』って考えて、本物の股旅モノはできないと思ったから。(後略)」
氷川「僕は岡さんのそんなお考えも知らずに、股旅モノで行くにしても、もっと自分らしく表現できるような方法はないかと思っていたんです」
岡 「それで、あの『やだねったら、やだね』のフレーズが生まれたんだよね。若い歌手がマジに股旅モノを歌ったって窮屈なんじゃないかってスタッフは考えていて。それで悩んでいたら、水森先生から『やだねったら、やだね』のアイディアがポッと出た。それを松井先生が採用してくれたんだよね」
氷川「『やだねったら、やだね』を聞いた時、僕らしいなと思いました。若さがあって、あっけらかんとしていますしね。それに、誰もが口ずさめる言葉で、幅広い年齢の方に受け入れてもらえるんじゃないかと感じたんです」
お二人の対談はこの後、まだ続くのですが、世代を超えてコミットし、そのジェネレーションギャップから生まれるエネルギーを創作に向けていくことの素晴らしさをこの対談から感じました。そして今、あらためて、このような経緯で、運命の縁の糸に結ばれて、きよしさんは松井先生にデビュー曲の詞を書いていただいたのだなあと思います。
少し前に観たジョン・ウィリアムズという方が作られた「いちばん美しい夏」(2001年)という映画を思い出しました。主人公の女子高校生・直美には両親も持て余し気味。彼女は親の言うことなどまったく聞かないし、わかり合える友人もいない。そんな直美がある事情でひと夏を田舎の親戚の家ですごすことになり、そこで軽い痴呆を患うひとりの80歳近い老婦人(南美江さんが演じています)と出会います。老婦人は時々、わかのわからないことを言ったりもしますが、直美の思いをごく自然に受け止めてくれ、二人は次第に心を通わせていきます。直美は「老婦人と同じ時代に生まれていたら、きっと親友になっていただろうな」と、そんなことをふと思ったりします。
そんな二人が映画の後半で実際にこんなやりとりをします。
老婦人が「私たち、もっと若い頃に出会っていたら、仲良しになれたのにね」と言うと、直美は「今でも仲良しでしょ」と言うのです。
そんな映画での二人のやりとりが、きよしさんと松井先生と少し重なって思い出されました。
生まれた時代が半世紀以上離れているのに、こうして出会うことができ、お互いの人生に大きく関わることができたということは、奇跡のような尊い縁なのでしょうね。でも、きよしさんと松井先生との出会いのように劇的な出会いではなくても、私たちの日々の多くの方との出会いも、”縁の糸”で結ばれた尊いものなのでしょう。そんなことをきよしさんにまた教えていただきました。
松井先生とのお別れの悲しさは、これだけ記事を書いても薄らぐものではありませんが、私も日々の生活、出会いに感謝して、がんばっていこうと思います。そしてきよしさんとの出会いにより感謝して、その歌声を聴き、心をこめて応援していきたいと思います。
松井由利夫先生、たくさんの素晴らしい作品と思い出をありがとうございました。先生のことは生涯忘れません。先生、どうかいつまでもきよしさんを天国から見守っていて下さい。
ご冥福を心からお祈りします。合掌。
松井先生の追悼について3つに分けて書かせていただきました。松井先生が”氷川きよし”と実際に会い、そして「箱根八里の半次郎」の大ヒットを受けて作詞された「箱根八里の半次郎~風雲編~」の歌詞で結びたいと思います。詳しい制作背景はよく知らないのですが、その後の「箱根八里の半次郎」を描かれたものとうかがいました。
「箱根八里の半次郎~風雲編~」
作詞・松井由利夫
作曲・水森英夫
月の湯の沢 霧立つ朝は
後ろ髪ひく 花すすき
浮世投げ節 三すじの絃(いと)が
切れりゃ涙の ほととぎす
やだねったら やだね
やだねったら やだね
箱根八里の半次郎
戻り馬かよ 馬子衆の鈴が
八里山坂 風になる
男 片意地 真平御免
人情(なさけ)振分 三島宿
やだねったら やだね
やだねったら やだね
どこへ飛ぶのか 渡り鳥
袖を七分に 手甲脚絆
いつか流れて ひと昔
おぼろ霞の 権現さまに
片手拝みの 詫びを入れ
やだねったら やだね
やだねったら やだね
箱根八里の半次郎