目標遂行能力
私の人生は42年もたつが、これまでを振り返るとこれといって「成し遂げたこと」が特にない。ダラダラと流されるまま、危険を回避しているうちに逃げ癖がつき、これといって特別にできることもないまま今に至る。まったく、ダメな大人である。子どもたちも親の背中を見て育ってしまい、失敗回避型の消極的人生を歩もうとしている。いかん。これではいけないと、発破をかけるつもりで某東大入学漫画を借りてきて、読ませようとしたが、そんなものは見向きもしない。こんな自分はダメだ、とか、いつまで甘えているつもりだ、などとも思うのだが、いかんとも動きだすには腰が重い。そんな自分にはいろいろ通り越して笑ってしまう。私にとって、自分の目標をしっかり立て、自分の人生を主体的に歩む人は眩しくて仕方がない。おお、すごい。尊敬しかない。地中の生き物のような私にはまぶしすぎるくらいだ。己の劣等感やら罪悪感やらでどろどろになってしまう。きちんと目標を定めて実行する、想像しただけで、ああ、すごすぎる。ところが。圧倒的プラス側面しかなかった「目標遂行能力」はだが、本日、物事はどんなことにも違う側面もあるのだということを感じる出来事があった。ある二人の人物がいる。二人ともよく似た目標を持っていて、目標を達成するには、互いの能力を活かすことが近道だった。二人は互いを信頼し、協力して、いっしょに目標に向かって進み始める。途中で片方が道を外れそうになる時は、もう片方が最大限の努力をして立て直す。目的地を設定したナビゲーションシステムよろしく、道をたがえたらすぐに新たな道を提示し、目的地に進んでいく。たとえ新たな道が、私道であっても、誰かの家の庭を突っ切るのだとしても、そこが通れそうならナビゲーションし、ナビゲーションされれば多少強引でも通過した。悪路を踏破する大きなタイヤも装備されている。そうやって、多少互いに疑問を持ちつつも、目的に向かってがむしゃらに進み続けた。目的地には着いた。目標は達成したのだ。おめでとう!でも振り返れば、走り続けた道は、ガタガタになっていた。踏み荒らされた庭の持ち主がどうしてくれるのかと訴えている。そして、互いに気が付いた。「むちゃくちゃな道をナビゲーションされてここまできてしまった。」「いくら修正してもきちんとした道を走れない、欠陥車に乗ってしまった。」「「どうしてくれるんだ!!」」目的は達成した。達成したのに。互いをけなしあっている。目標達成を喜べばいいのに(笑)これは実際にあった話の例えなのだが、この話を聞いたとき、目標達成能力があることが、100%で素晴らしいことではないのだなあと思った。道が外れても瞬時に新しい道を考えられ、どんな悪路も乗り越えられる強さもある。そういうことがナチュラルにできるからこそ、目標に向かってがむしゃらに頑張ることができる。とてもすごい能力だ。でも影もある。人の能力に100%良いものもないし、逆を言えば100%価値のないものもないのだ。二人とも、目標遂行能力が驚くほど高い。本人たちはとても自然に、堅実に目標に至る道を計画し、即座に実行に移し、粘り強く継続していく。そのための努力を惜しまない。頑張り続ける力がある。こんな素晴らしい力なのに、その力が100%の善になりきらないことに、なんだか私は感慨を覚えてしまった。人の意志がまじりあい、ぐちゃぐちゃになる中で、純粋だった能力もまた人の世でぐちゃぐちゃになり、変質してしまう部分もあるのだ。そのグラーデーションがなんだかとても愛おしいものにおもえた。