人間は、環境か、才能か、と言われることがある。
井深さんや、吉本隆明のように、生まれてから数年が勝負、と言う人もあれば、15~18歳の間に読んだ本が重要とか。いろいろ言われる。
ソニーも今回の件で、相当ダメージを食ったし、吉本さんの人生が理想かと言われると、そうも思えない。あくまで考え方の一つのようにも思える。
私自身は、どちらかというと、かなり運命決定論者的な度合いが強い。出会う環境も、生まれ持った才能も、結局運命なのではないかと思うのだ。そして、その運命は「偶然」の要素が強くて、とても必然性を洞察できるようなシンプルさではない、と思っている。
ものごとの必然性の洞察は、結局、ヘーゲルらの知的遊戯であって、人間の本質はもっと深い、というのが私の考えだ。ニーチェも、マルクスも、知的遊戯の産物を出ないように私は思ってしまう。ただ、知的遊戯も捨てたものではないけれど。知的遊戯を突き詰めたという意味で、カントが頂点だとは思うけれど、カントのような人生は実に恵まれていないか。ただ形而上学的な思弁を突き詰めるだけで、なぜ食っていけたのか。
カントの親は、皮革職人だったと思う。そういった日々の生業ではなくて、思弁家として食うことははるかに難しいと思うし、世の中に何をもたらしているのか、という葛藤が必ずある。カントにしても世に果たした役割は非常に小さい、というのが私の考えだ。
思弁と言う意味でなら、キリスト教の方が大きいかもしれないが、キリスト教も、物語としての意味合い、歴史的な意味合い、建築物や聖歌としての意味合い、教皇権という社会的意味合い、弟子たちの伝道、と必ずしもイエス一人にキリスト教の影響を求めることはできない。
少なくとも、猿から人間になって、支配者が生まれて、人間としての労働社会が出来上がったあとの社会的な意味合いを、キリスト教は大きく変えた。
王のための宗教から、虐げられた歴史を乗り越えて、広く浸透した宗教、と言う意味で、キリスト教はマルクス主義的な意味合いがある。
本当の意味で、神がかっているのではなく、生身の人間としてのイエスがいながら、その人間が「復活」したという思想に、キリスト教の深い意味合いがある。
仏教もイスラム教もその成立に深い、根源がある。
ガウダマの場合は、王の地位を捨てて、悟りを開く。それが一つの生活様式として広がる。その意味では、キリスト教と本質的に似たところがある。
イスラム教も同じで、新興であるからには、苦難の歴史を背負うことがあるのである。
宗教にも絶対性と相対性があって、キリスト教における十字架や教会や神父の存在は、ゼッタイでありうるが、相対的な意味では、偶像崇拝となりうる。
文学に比喩があるのと同じで、比喩の連鎖をどうとるかは、個人の認識にまかされている。