就職活動では、みんな仲良く、というわけにいかない。


 新卒の若い連中も押しのけて、我こそが、と名乗りを上げなければ、うまくいかないケースが多いだろう。


 私はそれが苦手だ。そういう意味で、ベーシックインカムやアメリカ型資本主義の見直しが図られるといいのだが、その方向性は薄い。


 10年後には、世界の40%の富がアメリカに集中するという。アメリカの覇権は終わらず、ところどころにほころびがあっても、ストロングアメリカに変わりはないというのが実情のようだ。科学・経済学の発展もアメリカが中心である。


 アメリカ型により同調した人たちは「勝ち組」であり、そうでない人は「負け組」になる。


 「負け組」へのセーフティーネットは、より脆弱になり、生きにくくなるのが現実に思える。

 

 人間は、環境か、才能か、と言われることがある。


 井深さんや、吉本隆明のように、生まれてから数年が勝負、と言う人もあれば、15~18歳の間に読んだ本が重要とか。いろいろ言われる。


 ソニーも今回の件で、相当ダメージを食ったし、吉本さんの人生が理想かと言われると、そうも思えない。あくまで考え方の一つのようにも思える。


 私自身は、どちらかというと、かなり運命決定論者的な度合いが強い。出会う環境も、生まれ持った才能も、結局運命なのではないかと思うのだ。そして、その運命は「偶然」の要素が強くて、とても必然性を洞察できるようなシンプルさではない、と思っている。


 ものごとの必然性の洞察は、結局、ヘーゲルらの知的遊戯であって、人間の本質はもっと深い、というのが私の考えだ。ニーチェも、マルクスも、知的遊戯の産物を出ないように私は思ってしまう。ただ、知的遊戯も捨てたものではないけれど。知的遊戯を突き詰めたという意味で、カントが頂点だとは思うけれど、カントのような人生は実に恵まれていないか。ただ形而上学的な思弁を突き詰めるだけで、なぜ食っていけたのか。


 カントの親は、皮革職人だったと思う。そういった日々の生業ではなくて、思弁家として食うことははるかに難しいと思うし、世の中に何をもたらしているのか、という葛藤が必ずある。カントにしても世に果たした役割は非常に小さい、というのが私の考えだ。


 思弁と言う意味でなら、キリスト教の方が大きいかもしれないが、キリスト教も、物語としての意味合い、歴史的な意味合い、建築物や聖歌としての意味合い、教皇権という社会的意味合い、弟子たちの伝道、と必ずしもイエス一人にキリスト教の影響を求めることはできない。


 少なくとも、猿から人間になって、支配者が生まれて、人間としての労働社会が出来上がったあとの社会的な意味合いを、キリスト教は大きく変えた。


 王のための宗教から、虐げられた歴史を乗り越えて、広く浸透した宗教、と言う意味で、キリスト教はマルクス主義的な意味合いがある。


 本当の意味で、神がかっているのではなく、生身の人間としてのイエスがいながら、その人間が「復活」したという思想に、キリスト教の深い意味合いがある。


 仏教もイスラム教もその成立に深い、根源がある。


 ガウダマの場合は、王の地位を捨てて、悟りを開く。それが一つの生活様式として広がる。その意味では、キリスト教と本質的に似たところがある。


 イスラム教も同じで、新興であるからには、苦難の歴史を背負うことがあるのである。


 宗教にも絶対性と相対性があって、キリスト教における十字架や教会や神父の存在は、ゼッタイでありうるが、相対的な意味では、偶像崇拝となりうる。


 文学に比喩があるのと同じで、比喩の連鎖をどうとるかは、個人の認識にまかされている。


 伊藤先生の参考書で選ばれている英文は、どれも少しひねった文章が多い。中原先生の本の場合、「冷戦対立→民族紛争の時代」とか、「子供を点取り屋にするのはよくない。心の健やかな発達を」とか、どちらかというと、普通の、あたりさわりのない、本質的な意味で基本的な文章が選ばれている傾向が多い。

 

 伊藤先生の英語要旨大意問題演習の最初の一文は、ニューヨークのビル群を、庭園に見てしまうアフリカ人(ビルが立体でなく平面に見える)という話だったし、何かひねった文章を読ませて、印象付ける文章を採択される傾向にあったようだ。


 テーマ別英文読解教室の「性善説と性悪説」の2を読んだ。人間は、羊とオオカミの両面がある。人間は強い人間には従ってしまう、と言う意味で、羊である。しかし、血の歴史に彩られた人類史を見ると、オオカミと言わざるを得ない面がある。人間はその両面を持っている、というのである。そして、オオカミとしての人間もより強いオオカミには従う、という羊的な面がある。そのパラドックスを述べている。


 ヒトラーは、一人で悪逆行為をしたのではない。それに従う多くの人間(羊)がいた。そして、その羊がいなければ、ヒトラー=オオカミではありえない。ヒトラーはオオカミになれない。多くのつき従う羊としての性格が、オオカミとしての悪逆行為につながっている側面がある、というのである。


 ただ、従順なだけなら、血の歴史を説明できない。オオカミを怖がる羊は、オオカミに化けるところがある。そして人は、羊やオオカミの両面を持っているといわざるを得ない。より怖いオオカミに従うオオカミは、羊的であり、そういった羊的な存在なしで、悪行もなしえない、という文章だ。


 それにしても難しい文章である。これを読めてなんになるんだろう、という思いも生まれてこなくはない。


 ただ、難しい文章が読めなくても、話せればいいのか、というと、話す機会なんて、あまりないのも実情だ。


 それに、外人と頻繁に接するような仕事になれほど、その人物の人間力が問われるようになる。その人間力は、深い読解力を磨かなければならないのはおそらく自明だ。


 なんにしてもめんどくさいところが、あるということかもしれない。