私の場合、英語ができることが、お金や地位につながると無邪気に信じ込んできた節がある。


 幕末の勝や福澤も、ズーフハルマをはじめとして、洋書に熱心に取り組んだ。


 勝は、それでも、オランダの教官の「書物と実務の違い」に動かされて、学問にのめりこむことはなかった。理屈よりも、人情本を好んだ。


 逆に福澤は、学問にのめりこんだ。江戸城無血開城時にも、学問にのめりこんでいたといってよい。実際の実務にはそのとき、福澤は関わらなかった。


 美とは何かは、難しいけれど、単純には、官能的感動をもたらすものが美と定義できる。何に反応するのかは、生命学に任せるとして、美学を持って生きることは、生活を安定させること、安定した生活の上においても、最も重要なことだ。


 美学を持って生きることが生活を安定させるとは一体どういうことか。


 美学を持って生きる人にはそれなりにお金が集まる、というのは、私の直感・信念である。


 私がそれなりに生きてこれたのも、美学があったからだとしか思えない。


 生活が破たんをはじめたのだとしたら、美学が壊れてきているのだから、新たな美学を打ち立てなくてはならない、そういう問題だと思う。


 美学と生活は、身近な問題だ。美学なくして、生活なく、生活なくして、美学なし。どちらが先でもあとでもない。

 

 哲学的主題において、最も崇高なのは、これでしょう。


 これをしばらく考えてみたい。