今日は快晴となりました。
昨夜は、物凄い嵐でしたが、みなさまお変わりありませんでしょうか。
チョコは、昨夜、吹き飛ばされそうになりました。
きっと、昨夜の嵐で、関東のさくらは、散り終わってしまったのではないでしょうかね。
 
春眠暁を覚えず
処々啼鳥を聞く
夜来風雨の声
花落つること知りぬ多少ぞ
 
孟浩然の「春暁」ですが、まさに今朝はそのような感じでした。
 
 
さて、1週間前の京都、3月31日です。
平安神宮の神苑で、300本のさくらを見たあと、神泉苑に向かいました。
タクシーに乗って行ったのですが、運転手さんはこちらのお寺をご存じありませんでした。
そんなこともあるのですね。
 
行ってみましたら、さくらは綺麗なのに、殆ど人がいないビックリマーク
たまたまでしょうが、タクシーの運転手さんが知らないくらいだし…
あまり大きくはないお寺さんです。
 
しかし、こちらはそもそもは桓武天皇がそのお庭として造られたところで、ずっと広く大きなお寺だったのですって。
皇室の別荘のような存在だったのでしょうか。
ご本尊は聖観世音菩薩です。
その昔、弘法大師が、善女龍王を勧請して雨乞いをしたのですって。
そしてね、嵯峨天皇がこちらで初めて花見というものを催されたというのです。
春になれば、花が咲けば、こうして春を、花を求めて、私のようにあづまぢの果てからでも都にやってくる日本人、そのお花見の発祥の地であるとは、ありがたいことです。
 
庭園にふさわしいのはやはり池かしら。
龍をかたどった船がいくつか浮かんでいました。
 
 
 
池に寄るさざなみ。
 
 
 
日本人にとって、たぶんさくらは特別な存在。
さくら前線などという言葉もあり、私たちはさくらの動向に一喜一憂しますね。
勿論、そんな気持ちは日本だけではありません。
最初に書いた、「春暁」は、唐詩ですから、昨夜の風雨で花はどれくらい散ってしまったかしら、という結句から、唐の文人たちも花の行く末にはらはらさせられていたに違いないことがわかります。
さくらではなくても日本人ではなくても、夜半の嵐が激しければこういう気持ちにはなるでしょう。
でも、
 
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
 
にもあるように、日本人は、雨が降っても降らなくても、風が吹いても吹かなくても、春になればさくらの様子は気になって気になって仕方ないのです。

 

 

ここ神泉苑で、さくらを愛でる催しが最初に行われたというのは、なにか特別なことのように感じます。

花見、月見、雪見はやはり日本人の心のありようがよく表れたものだと思うのです。
 
 
この前に訪ねた所が、人でごった返す平安神宮であったため、お花見として見るなら全く穴場状態のこのお寺の庭は、清浄で清閑な場所となりました。
ひっそりと花を愛するこころをいざなう空気が、ここにはあります。
 
 
この池に散るさくらのはなびら、その一枚が水面に舞い降りたときの波紋が、音となって心に共鳴していくような気さえします。
 
 
 
 
 
しみじみと、さくらを愛でで、さくらを感じて、さくらを思う時間を持てました。
ありがたいことです。