備忘録No.30

昭和48年に入社した大手アパレルは、外堀通りの飯田橋と市ヶ谷の中間辺りに本社が有り、その敷地は榎本武揚の邸宅の後地でした。中庭には榎本武揚が植えたと言われている銀杏の大木が有りました。現在は観光専門学校になっており、銀杏の木もまだあるそうです。小生が入社した頃は高度成長期で同期入社数が、記憶が曖昧だが約80人(その内男性は20人ぐらい)ほどいました。本社以外にも、四ツ谷、代々木や本社の近くのビルにも色々な事業部が有り従業員が約1,000人いたと思います。札幌、大阪、福岡にも営業所もあり後に支店規模になりました。関連企業として、帝人との合弁会社や紳士服の系列会社も有りました。小生は4年目に、福岡営業所を支店規模に拡大する際博多に転勤させられました。小生は入社してから婦人服のカジュアル担当の営業部に配属されました。先輩の下で新宿の伊勢丹で2年間経験を積み、銀座の松屋担当として一人立しました。その当時は作れば売れるという時代で、営業ノルマは必ず達成できるイケイケの雰囲気で、仕事に遊びに???入社3年目の秋に結婚をし初台でしょたい持った途端、小生を可愛がってくれていた常務から呼ばれ、福岡転勤を言い含められました?当時福岡は営業所があり、東京から転勤させられた先輩達が、仕事はキチッとするのだが、夜遊びで身を持ち崩している(博多の夜は東京からの転勤族がとてもモテた?)ので、世帯を持っている小生に白羽の矢がたった?実は3年目に事業部の組織変更により、小生の所属していた部が、敵対?していた部に吸収され、所属長との馬が全く合わず、直属の役員に退職願いを提出した経緯がありました。若気の至り?カミさんとは社内結婚でしたので、小生の転勤と同時に退職をし、博多での生活が始まりました。東京ではカジュアルの担当でしたが、転勤してからは婦人服全般を担当し、(アンダーウェア、帽子、アクセサリー、ストッキング、靴、アクセサリー以外)一年目の担当地域は大分県のトキハデパート、熊本県の鶴屋百貨店と今は無くなりましたが岩田屋伊勢丹、博多の大丸を担当しました。毎週金曜日に熊本に入り翌日大分への出張、週ごとにその逆というコースで出張しました。熊本から大分へのコースは豊肥本線と言う単線で阿蘇の裾野を走る、とても景色の良いコースでした。最初に大分へ入るときは、日豊本線で大分へ行くのですが、当時は小倉から中津までは複線でしたが、その先の日豊本線は単線で雨風が強くなると止まってしまうことが多い不便なコースでした。

2年目は鹿児島の山形屋、宮崎の山形屋、沖縄の山形屋、沖縄三越、リュウボウデパートと博多の岩田屋百貨店の担当になり、同じく毎週末は出張と言う仕事の形は変わりませんでした。沖縄だけは毎週とは行かず、2ヶ月に一回のペースでの出張でしたが、出張と言うよりか得意先の方との親睦?がほとんどでした。転勤した年の暮れに第1子の長男が誕生し3人家族になりました。3年目も同じ担当地域を引き続き担当していたのですが、4月25日に、会社が東京地裁に会社更生法の申請をし、身動きが取れなくなりました。その時の支店長が前もって情報を把握していたので、支店での決済に使っていた金融機関の預金はほぼ全額おろし、支店の金庫に保管していたので、運送業者やその他のリース業者達がが取立てに来ても全く困りませんでした。

会社更生法が受理され、保全命令が出されたことにより営業活動が続けられる様になりましたが、これから会社がどの様になっていくのか、若かったことも有り、その後の身の振り方を気にする事はあまり有りませんでした。7月になり急遽支店が閉鎖する方向が示され人員整理が始まりました。小生一人だけが本社に帰る様指示され8月に横浜に引っ越しました。結局、福岡支店は営業所として縮小し、人員も半分以下になりましたが残りました。博多で生活していた頃は仕事でも遊びでも楽しい思い出ばかり、イベントを実施するにも、家族全員参加が当たり前で、支店の社員全員が家族と同じでした。今でも支店時代の仲間との交流は続いています。ここからが小生の激動の人生の始まり???