備忘録No.31昭和53年8月に福岡から東京の本社に戻りましたが、人員整理がされた為同期で入社した仲間は散り散りになっており、残っていた男子の同期は、子ども服の事業部にいたただ一人のみでした。勤務していた会社が会社更生法の申請をした原因は業務拡大段階での計画がずさんで資金ショートをたびたび起こしていた事と、メインバンクに内緒で他のアパレルとの提携を図っていたことによりメインバンクを怒らせ、資金を止められてしまったこととの事。提携を図っていたアパレルはその後英国なバーバリとライセンス契約を結び売上を伸ばし成功しました。現在はかなり苦戦を強いられています。更生手続きが始まるまで1年ほどかかりましたが、本社や代々木の事業部のビルを売却し数年かかり通常の会社としてスタートしました。それまでの間は給料もボーナスも少なかったので家族にも迷惑をかけてしまいました。本社に戻り1年間伊勢丹の支店全店を担当し、続いて4年間横浜の高島屋の担当をしました。その後商品を企画する部所でマーチャンダイザーとして、山本寛斎さんとの提携ブランドを担当しました。今までとは感覚の違う内容でしたが、原宿の寛斎さんの事務者に通い、今までとは全く違う人達との交流ができ、とても楽しく仕事をさせてもらいましたが、2年ほどで提携も終わってしまいました。次に大きいサイズのカジュアルウェアの企画と、ダイエーやイトウヨウカドウの他地方の量販店の婦人服コーナーの企画を担当し、全国の展示会に参加しました。昭和63年に再び業績が悪化し、トーメンから社長が送り込まれ、再び多少の人員整理が行われ、小生は営業部での管理職をと言われましたが、同じ様な事が繰り返されることに不安を感じ、仲間3人で独立をすることにし退職をしました。在職中も転職を考えてジュエリーから婦人服までを担当する某社に合格したのですが、ギャラの折り合いがつかず断ってしまったこともありました。会社を一から立上げる事は大変な事です。取り敢えず得意先は伊勢丹がリニュする内容に一致する商品群が、我々の企画内容と一致していたので、仮口座で取引をできる事だけが決まっていました。先ずは事務所を借り、株式会社としてスタートする為銀行に、資本金1,000万円を積んで保管証明をもらい、登記をする為の定款作り。当時の会社法では株式会社の資本金は最低でも1,000万円が必要でした。いざ会社設立の準備を始めたところ、仲間2人(社での先輩でした)は出資金が殆どなく小生は怒り心頭!しょうがなく社長を任せる先輩には会社設立後に自宅を担保に資金を借りる事を書面で約束させ取り敢えず会社を設立。社名はカミさんの提案でグレタガルヴォからとり、株式会社ガルヴォとした。6月に登記をして、8月の末には伊勢丹に仮口座を許可してもらい取引を開始しました。当初は伊勢丹本館の3階に売り場も貰い順調にスタート。元いた社には内緒で独立した為、スタートした途端に材料の仕入れ先に圧力がかかりだし、味方してくださった仕入先には迷惑をだいぶかけてしまいました。昔のアパレル業界は素材を仕入れするにもメーカーからは直接買えず、専門商社を通さなければならない流通システムでした。しかし、公私共に可愛がってくださった尾州産地の機屋さんには内緒で直売りをしていただき、支払いサイトもとんでもなく長くしていただきバッカアップをしていただきました。伊勢丹との取引が始まって半年後に高島屋から声がかかり、即仮口座をおろしていただきました。(当時の高島屋が仮でも口座を与えてくれる事は殆どありませんでした)伊勢丹と横浜高島屋をメインとし、東海地区の専門店にも手を広げ、福岡にも営業所を出し順調に進んでいきました。しかし、売上を倍増させたいと言う考えから取引先を広げた為結果、在庫ロスが多くなり、売上の伸びに応じた利益は出なくなってしまいました。それと同時に使徒不明金が発生したり仲間との経営方針が合わなくなり8年目の9月で手を引きました。それ以降の経営責任は全く取らない事、役員登記から外す等の条件をだし、出資に対する配当や返済は求めない事を約束し退任しました。小生が退任して3ヶ月後に不渡を出し、社長は夜逃げして未だに生存も不明です。
小生は手を引く事を決めていたので前もって横浜の鶴見に2階建ての木造家屋を借り、1階をショップ、2階を事務所にして商売を始めていました。