備忘録No.32
横浜の鶴見での開業は社名を「ca et la」(サ・エ
・ラ フランス語で色々)とし、国民金融公庫から借入を起こして始めました。当初借入額は申込額の精々7割程度しかおりないと言う情報から少し多めに申込ましたが、資金の活用計画と返済計画が整然?としていると言われ、必要ではないのに満額おりてしまいました。
活躍計画と返済計画が見本となるので、個人情報は出さない条件で、参考書類のサンプルとして暫く活用されていたそうです。
以前立ち上げた会社での経験(銀行を騙す?)が役に立ったみたいです。
11月末に手続きも完了し、資金を持って韓国のソウルに向いました。その当時韓国では、外国人が銀行口座の開設や賃貸物件の契約ができませんでしたので、韓国人の知人の事務所を間借りさせてもらい、銀行口座等もソウルで雇った社員の名義で始めました。
何故韓国なのかと言うと、将来的に海外生産が拡大すると判断した為です。アパレル業界は、その当時韓国での生産活動は殆ど行われておらず、中国での生産も行われていませんでした。ヨーロッパをまわっていた頃の経験から工賃の安価なところがメリットでした。しかし課題は多く、素材の品質に関してはかなり粗悪でした。素材に関しては日本から手持ちで持ち込んで生産を開始しました。工場は工場とは名ばかりで、ビルの地下を借り家賃は月に30,000ウォン、従業員もパートで時給1,500ウォン(日本円で120円ぐらい)でした。しかし、技術が伴わず不良品の連続でした。
当初カジュアルなジャケットの生産が主で、半年ぐらいで軌道に乗り出し、ブラウスやワンピースなどの生産も始めました。日本に輸入するには、航空会社や税関の方々にアドバイスを貰い、色々な知識を得ました。(法律ギリギリで密輸にならない程度?)ソウルで始めて2年目には東大門の市場にも小さな店を出しましたが、本当の経営者が在日韓国人ではなく日本人と分かった途端に色々と差別や邪魔をされ出しました。その頃は少しだけ韓国語を話せるようになっていたので、無謀にもつたない韓国語でやり返し、警察沙汰になった事も有りましたが、どうにか商売仲間として認められたようでした。生産が終了自家工場だけでは全く間に合わず、生産を委託する工場を増やしたのですが、売れ筋が出ると平気で外部に流すと言う契約違反(原材料は此方が提供していた)をする工場が多く、その度に伝手を使い倒産に追い込むようにしていました。今でも平気で約束を守らない国民性は変わりませんね💢