三、毒矢のたとえ
「阿含経」という旧い経典に毒矢の譬えと言う教えが説かれております。これは間違った道に進むのを戒めた教えであると言われております。
お釈迦さんが舎衛城の祇園精舎で法を説いていたとき、一人の修行者が考えあぐねた末にお釈迦さんのところにやってきて、
宇宙は永遠であるか、永遠でないか、
宇宙は有限か、無限か、
霊魂と肉体は同じか、否か、等について質問し、
若し此の問題をお説き下さったなら、私は世尊(お釈迦さん)の元で学びたいと思いま
す、と言いました。
どうも、お釈迦さんは同じようなことを何回も聞かれたようです。
現在でも先生は生徒から解らないところがあれば、Aさん、Bさん、Cさん・・・と言うように何人からでも質問をうけるでしょう。
お釈迦さんはその質問の仕方が正しくないことを指摘されて、その場に居合わせた弟子たちに、お話をされました。
若し、「これこれの考えについて明らかな回答が得られない内は、私は修道生活をしない、と思うならばその者はそれを知る前に死んでしまうであろう。」と言われて、次のような例えをお説きになったそうです。
例えば、毒矢に当たって苦しんでいる人がいるとすると、
親類の者は早速医者を呼んで矢を抜き治療を受けさせようとするが、
当人が次のようなことが明らかにならない内は、此の矢を抜いてはならない、と言ったならどうなるであろう。
此の矢を射た者の名前、生まれ、姿、住所、氏族は何か、
弓は何で出来ているか、
弦は何と言う糸か、
羽は何の鳥の毛か、
やじりは何製か、
毒は如何なる種類の毒か、
また、医者はなんと言う名で何処の生まれか、
その人はその内の一つも明らかにしない内に死んでしまうであろう。
それと同じで、
此のような見解の如何によって修道生活をしようと思ったり、またやめようと思ったり
するのは誤りである。
此のような見解の如何にかかわらず、人は生老病死の苦しみに悩んでいるのである。
私がそのようなことに見解を説かないのは法にかなわず、救いと智慧と悟りへの道では
ないからである。
私は説くべきものを説き、説くべきでないものは説かない。
悪戯な戯れの議論を捨てて正しい修行に励むがよい。と諭されたそうです。
この話を聞き、弟子達も無益なことに耳を貸さず、喜びを以て教えに耳を傾け、修行の
道にはげんだと言うことです。
世の中にはつまらない問題をとらえて、ああでもない、こうでもないと論じ合っている
人がいますが、不確かな証拠によって論じられるものは、如何に論じても無駄で、それよ
り目前に控えたもっと大切な切実な問題がある筈であることを諭されたものでありましょ
う。
此のような問題を根本的に解決するにはどうしたらよいか、そして、この貴重な人生を
過ごすにはどうしたらよいか、私たちはその為に正しい道を知らなくてはならないと言う
ことがお釈迦さんの教えなのである。と、
「阿含経」に書かれてあります。
この物語は身近で、大切な問題から解決しなさいと言うことを教えていることでありま
しょう。
ここで私が佛教を学んで気が付いた事は釈尊が精神統一(禅定)をしていたと言う事で
す。
禅定をすると言うことは、宇宙の真理と一体の境地になることで、それを「悟り」と言っているのです。
それを釈尊は行い、仏弟子に教えているのですから、正しい心と智慧は禅定、即ち、瞑想によって得られると言う事です。
正しい真理・智慧は永遠不滅のものですから、悟りを得られた人間は永遠の命を得られたことになる筈です。
従って、人間は永遠に不滅であると言う事になるのです。即ち、死後は無くならないと言う事です。これが、私の佛教を学んで得られた結論です。
する)か、
世界は有限であるか、無限であるか、
霊魂と身体とはどのような関係にあるか、
如来(悟りを得た人)は死後、存在するか、しないか、
死後において人間の生存の有無について、など、
以上のようなことについて十四の形而上学的(精神的な学問。物事の根本原理を研究する学問。)質問を受け、論争を挑まれましたが、お釈迦さんは沈黙を守って答えなかったと言われております。
お釈迦さんは紀元前約四百年ころの人ですが、現在では心理学や精神医学などの発達により当時解らない形而上学的(精神的)なことも徐々に解明されてきております。
ところで、これらお釈迦さんが答えなかった問題は、決して、死後はない、とは言っていないのです。ただ、答えなかったと言われているのです。
死後に浄土に行くとか、輪廻転生の思想などが佛教に説かれているのは来世の問題を示しているのではないでしょうか。
これからは、いろいろと研究が進み、お釈迦さんが答えなかったと言われている、形而上学的(精神的)な問題についての回答が見出されるようになるかも知れません。これについて佛典から引用してみましょう。
「法句経」(ダンマパダ)に次のような言葉があります。
生きとし生ける者は幸せをもとめている。
もしも暴力によって生きものを害するならば、
その人は自分の幸せをもとめていても、
死後には幸せが得られない。
(「ダンマパダ」一三一)
生きとし生けるものは幸せをもとめている。
もしも暴力によって生きものを害しないならば、
その人は自分の幸せをもとめているが、
死後には幸せが得られる。
(「ダンマパダ」一三二)
「ダンマパダ」(漢訳「法句経」)は最古の経典と言われておりますが、このなかにお釈迦さんの言葉として、死後の幸せと不幸についてこのように書かれているということは、死後の問題について、お釈迦さんは現世の行為が死後(来世)に影響することをちゃんと説いていたように思われます。
先にも述べましたようにお釈迦さんは書いたものを残さなかったのですが、佛滅後(釈迦の死後)に弟子が口伝えに聞いた言葉を書き残したものが佛典となって今日伝えられているものでして、聞いた弟子によって異なった意味でとらえた者もおれば、聞いた弟子の能力によってお釈迦さんの真意をおもんばかって深意を書いた者もいたのです。
お釈迦さんや孔子やキリストなどの聖者ばかりでなく、希望をもって研究に励んでいる科学者や唯物論者も、識る、識らないにかかわらず、未来の幸せ、来世の幸せのために、努力をしております。
これは今という時のためにだけ生きているのでなはない証拠ではないでしょうか。
にも関わらず、死後を否定している人が多いのが現状です。すなわち、未来の為に努力しているにも関わらず死後を否定していると言う矛盾の世の中に多くの人は生活しているのです。
ところで、死後のことについてはいろいろ言われておりますが、この問題についてお釈迦さんはどのような答えを出したのでしょうか。
それについてお釈迦さんははっきりとした答えは出していないとか、死後のことは語らかなかったとか、言われておりますが、どうでしょうか、
日本では、ある宗派を除いて死者の霊を供養することは行われております。
テレビなどを視ていますと、日本ばかりでなく中国や韓国などでも先祖供養は大切な行事として行われているようです。
キリスト教はじめ、いろいろな宗教でも死者は丁重に葬られて大切にまつられているようです。
どうも、人間の世界では民族の違いを超えて死後の世界は認められているように思われます。
生きている人間には心と体があることを誰も否定する人はいないのですが死後については、意見が異なるようです。
佛教の教えのなかに、これについてはどのように書かれているのでしょうか。
問題については、『心の世界』『気功療法の応用』にも書いてあります。瞑想の極意も書いてあります。
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内容
戦前=軍国主義教育
戦中=軍隊(旭川―釧路―東京=東京大空襲―長野―終戦)
戦後=昭和21年(神戸=MPと遭遇)-昭和22年(東京=進駐軍の横暴)
戦後海外で活躍した旧軍人など。