先日ヴィーガンさんと少しお話しさせていただく機会を得ました。
「ヴィーガンを拡めるにはどうすれば良いと思いますか?ヴィーガンじゃない人の意見を知りたくて」と云う問いかけには、私のような人間はホイホイ捕まりますからねニヤリ

その時の結論から言えば、私自身がヴィーガンに対する理解度が低くて、一般的な事しか言えなかった。
曰く「最終目標(全人類ヴィーガン化計画)までには段階を設定して少しずつ前進するしかない」
「万人には届かなくても、知らない人の中にその考え方生き方が必要な人が必ずいる筈だから、貴方達の活動はこの多様性の時代に、社会的に文化的に必要で意味のある事だと思う」
「私はお肉食べるけどね」
しか言えなかった。


そして、それからずっと考えていた。


ヴィーガンについてネット検索してみた。
ヴィーガンと云うのは、お肉を食べない人たちという認識しか無かった私は、ヴィーガンが基本蜂蜜も牛乳も鰹節も、いわゆる生き物由来のものは何も食べないと知って驚きました。

以前、書いた読書感想文の記事

「そこに痛みを感じる動物がいることを理解しながら、見ないことで毎日を生きている。
保護犬に心を寄せるのは、私がこゆきと群れになったから。
こゆきが牛だったらビーガンになっていただろうし、
こゆきがガチョウだったら羽毛布団の不買運動をしてただろう。」

と書いたけど、実際のヴィーガンさんにお会いして理解が違ってたと気がついた。

「蜂蜜」というワードから思うに、「人間が行う他の生き物からの搾取」その全てを拒否する考え方。それがヴィーガンだと理解しました。
(おいおい、全人類ヴィーガン化計画なんて,どんな無理ゲーを自分に課すんだヴィーガンさん達はびっくりそして全人類ヴィーガンになった際のリスクについてはどう考えているんだろう?人為選択された家畜を過酷な野に放ちレッドデータブックに載せるつもりか?)

ただ、ヴィーガンの中でも、その理由が
自身のため
環境のため
他の生き物のため
この三つに大きく分かれるようです。

もちろん人の行動の理由が一つに限定されるなんて事はなく、その全てを気にかけてヴィーガンやってるって人もいるとは思うので、門外漢の乱暴な分け方ですけどね。

自身のためと云うのは、健康や美容のため肉食をしないってことで、私はこれについて明確なエビデンスを知らないので、ピンと来ない。

環境のためってのは、簡単に言えば、宇宙船地球号(懐かしいフレーズ)に乗ってる資源の分配方法のお話。肉と野菜を比べた時、食べられる状態にする為のエネルギーが植物の方が圧倒的に少なく、人類生存に最適な環境の破壊も少ないので、全員が野菜だけ食べた方が、人類存続の効率が良いってこと、かな。多分。まぁ、飢えてる人にも食料はまわるようになるだろうけど、そうなれば更に人は増えて多分植物だけでも足りない時代が来るけどね。人類滅亡の到来を遅らせる事はできる。その到来を遅らせる必要があるかないかはまた別のお話しニヤリ

そして、動物福祉の精神、食肉にされる動物達の処遇への拒否感からお肉を食べないと云う考え方。

さて、ヴィーガンさん達がお肉を食べない理由はだいたいわかった。


次は「私は何故お肉を食べるのか」だ。

・そこにお肉があるから
・バランスよく食べようと言われてきたから
・美味しいから
・人間は肉を消化できる生き物だから
・200万年続く食文化だから

いろんな理由が思いつくけど、結局のところ
「人間が肉を食べることは生き物として正しい」と思っているからだ。

ヴィーガンになる要素はめっちゃ私の中にはある。

子供の頃、初めて目の前で魚が捌かれるのを見た私は、その晩、出された刺し身を食べることが出来なかった。
大人になって買ってきた砂出し中のアサリに情が湧いて、どうしても調理出来なかった。

だけど、私はそれを自分自身の生き物としての弱さだとずっと思ってきた。
魚を捌き、鶏を絞め、食卓に乗せるのが生きるということなんだと。

ただ、スーパーで売っているお肉を買って食べるのが生き物として正しい行為だ。と云うのも違う気がする。

単純にシステムとして分業と対価と云う面で考えると正しいけど、そのお肉達がスーパーに並ぶまでを、文字で写真で動画で、誰かが切り取り発信してくれた情報として知っているとそう言い切るのは躊躇せざるを得ない。

「生命に感謝して食べれば良い」と云う言葉は、今の私にはまだ言えない。最終的な結論がそこに行き着くとしても、そこへ至る道が真っ直ぐ見えてこない今、それを言うのは結論ありきのただの思考停止だから。

本来なら、自分で狩り、絞めることを前提とした「生命をいただく」と云う言葉を、ただパック詰めされたお肉を食べることに使用するのは違う気がする。

先日読んだ本に、エスキモー達はカリブーの群れを見て「美味しそう」と感じるという星野道夫氏の記述があり、生きている牛や豚や鶏を見ても絶対美味しそうに思えない状態で、お肉を食べてる自分を自覚する。

そうやって考えていると、じゃあ、生命の線引きをどこに置くか、とも思う。
植物は食べても良いのか。
まぁ、それはまた別のお話しにしないと問いが広がるだけなのでここには書かないけど、問い自体は、全ての生き物からの搾取を否定するのであれば「何故お肉を食べるのか(食べないのか)」と同じ比重で問われるべき問題だと思っています。

さて、ぐだぐだ書いてきて「お肉を食べると云うこと」に結論はあるのかって話ですが。まぁ、答えはまだ無いですニヤリ

いろんな角度から考えられる問いに一つの答えを出すのは難しい。

家畜というもの(アイロニカルだが人間が食用にする限り家畜の種が絶滅することは無い)
狩猟というもの(肉食の是非及び文化)
動物福祉(この言葉ですら多数の問いを内包している)
そして、搾取というもの

それらを考え、総合的に出すのが結論なら、多分一生結論は出ないかもしれない。

今も私は
「でも、私はお肉食べるけどね」
と、あの時と同じ言葉を発する。

それはある意味殺される動物への想像力の欠如かもしれない。だけどどちらかと言えば、食い意地が張ってるんだと思う。犬以外の肉は、例え○肉(自主規制)だろうとスーパーに並んでいたら抵抗なく食べられる自信があるものニヤリ

ただ、ひとつだけあの時には思いもしなかった決意をしている。

死ぬまでにしたい10のことに
「自分の手で鶏を絞めて解体しその肉を食べる」
を追加した。

自らで生命を屠り、取り込む経験をすることで、やっと「生命をいただく」と言えるのだと思うから。
多分泣くだろう、手も震えるだろう、吐きそうになるし、しばらく何も食べられなくなるかもしれない。
でも、その時こそ「お肉を食べると云うこと」がどういうことなのか自分の解答を得ることが出来ると思う。