暑いよね、この季節にしては。

 

夏バテしても不思議じゃないから、

 

夏バテしてしまった。風邪か、疲れ

 

か、ストレスとか悩まなくていい。

 

体がまだこの暑さに慣れていない

 

だけだから。おまけに微熱まである。

 

昨日かもしれない、朝にドライのまま

 

寝ていたら、肋間が痛み出した。

 

思ったよりも冷えたのだろう、肋間

 

神経痛というやつで、すぐに鎮痛剤

 

で対処しないと、強烈な痛みに変わ

 

ることがある。

 

数か月前だろうか、ズキンズキンと

 

こんなに痛くなるんだというくらい

 

の痛みで、薬を飲んでから30分は

 

それに悩まされなければならなかっ

 

た。体の苦痛なのだが、苦痛だと

 

感じるのがほぼない生活だったので、

 

苦痛を感じる人は大変だと、他人事

 

に思った。

 

持病の激痛は忘れていたが、それは

 

痛みの比較にならないくらいなので、

 

かえって覚えていないのだ。あの激痛

 

はまったく別世界だから。その痛みと

 

自分だけの空間になって、できるのは

 

堪えることなのだが、それ以外を

 

考えることさえできない。

 

この老化と体の故障とがどれくらい

 

関係しているのか見当がつかないの

 

で、ちょっとした故障なのか、だんだ

 

ん悪化するような故障なのか、心配も

 

できない。

 

 

なぜ故障を書いているのかと言えば、

 

それ以外は順調で楽しくやっている

 

からさしたる不満もない。前から

 

言っているように、外部への不満や

 

批判の種は多すぎて尽きることがない。

 

数えて何百、見つけたら数万という

 

批判や不満はあって当然なので、それ

 

を取り上げて敢えて非難したりする気

 

になれない。それらは気にしていれば

 

いいことで、そのうちに解決のヒント

 

やアイディアが湧くかもしれない。

 

とにかく、忘れてもいいから、胸に

 

ポンッと入れておく。今それに対処

 

できる状況にないし、それが僕の

 

仕事ではないからだ。

 

社会のあらゆる部分から罅(ひび)が

 

入っているのだから、過去の歴史にし

 

ても同じだから、それを数え上げても

 

キリがないだけだ。それは集約して

 

まとめることができるが、まずそこ

 

に注目して少しでも考えてみようとい

 

う気を起こさなかった人には何を言っ

 

ても無駄だ。

 

見えていても、網膜に写っていると

 

いう現象が起こっているだけで、

 

それが何かという事実に関心がない

 

のだから。

 

 

何をどうすればいいか、とすぐ考え始め

 

る人が多すぎる。実はそんな手っ取り

 

早い方法はない。けれども、それがもの

 

ごとを解決することだと人は思っている。

 

まず頭で考えれば答えが見つかるはずだ

 

と思う人は実際に他人の、または客観的

 

に自分の問題に当たったことがない人

 

たちだ。

 

ライアル・ワトソンというライフサイ

 

エンティストでTVディレクターが、

 

アフリカ、オランダ、ドイツでの学究

 

を経て、ロンドン大学で博士号を取得

 

した人で、動物行動学、人類学、医学、

 

心理学などに造詣があるが、科学と

 

精神の境界を探ることを目指し、超常

 

現象にもメスを入れようとする。

 

それは面白い本を書いている。

 

しかし、彼には死を克服できないと

 

いう、この分野の研究には欠かせない

 

資質をもっていないという、ほぼ

 

決定的な欠点がある。目の前に迫った

 

ことを直視できないのだ。これは多く

 

の人にも当てはまるだろう。

 

それがその人の物事への需要と許容に

 

関わる、その根本の資質になる話だ。

 

彼はある時、死刑囚が脱走して、納屋

 

に閉じこもったらしい情報を得て、

 

その納屋に向かった。その時の描写は

 

迫真でいよいよ死刑囚と対面か。と

 

ドアを開けるかという処で、はぐら

 

かされてしまう。

 

気がつくと、ホテルに帰っていたと

 

いうのだ。完全にそこだけ記憶が

 

飛んだらしい。同じように燃やした

 

赤々とした炭の上を裸足で渡るという

 

修行者の行事があったが、彼も挑戦

 

しようとした。そして、またしても

 

ホテルの一室で自分に返るのだった。

 

記憶はないが、足は炭で汚れている

 

から熱い炭の上を渡ったのだろう、

 

と手前味噌の楽観な観測を言うが、

 

それはないだろう。そういう時人は

 

逃げて、そのつらい記憶を失くすの

 

が常である。

 

彼は死に塗れてもいいと、それを

 

実行できずに逃げる人なのだ。それが

 

恥ではないのだが、はっきり認めない、

 

逃げた可能性すらそう書いていない

 

ので、それが逃げ帰った証拠なのだ。

 

あまりにきつい状況では人は簡単に

 

気絶する。例えその瞬間だけでも

 

気絶して、恐怖がなければ、すぐに

 

回復するものだ。

 

僕の経験では、66歳でバンジージャ

 

ンプをした時にとても愉快で興奮して

 

いた。

 

ただ高い所から飛び降りるだけだから、

 

技術的に難しいことはなにもない。

 

しかし、高い所から飛び出すには、

 

やんちゃな勇気がいる。僕は自分の

 

タイミングで飛び出すからと、係の

 

外人の青年に放っておいてくれ、と

 

飛び出した。きれいにまっすぐ飛んだ

 

のが写真に残っている。

 

下で川の上で宙ぶらりんになり、下の

 

係がゴムボートでやって来て僕の体を

 

回収した。

 

彼らは飛んだ客が自分を失っているか、

 

ぼーっとしてしまっているかすぐに

 

その表情でわかる。僕は引き上げられ

 

て、その川の流れに近い岸で、意識が

 

上がって危ない人を休憩させる椅子には

 

坐らせてもらえず、すぐに橋の上に登る

 

道を行くように言われた。

 

僕は正気だった(と見えた)。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分でもそう思って来た。が、1ヵ月

 

くらいして気づいた。思い出せば、

 

飛び出してからの記憶がなかった。

 

たぶん、4秒くらいだろう、気がつい

 

たのは、下まで行って、バウンドして

 

一回揺れた時だった。その記憶映像で、

 

そうか、と覚えていないことに初めて

 

気づいた。

 

気絶だが、数秒なのですぐに気がつい

 

たらしい。それで自分でも記憶がない

 

とは知らないままだった。


死は怖くない。しかし、体(脳)は

 

知っていて瞬間的に自分を守ったの

 

だろう。

 

肝心な落下の数秒を見逃してしまった。

 

今度は見逃さないで景色を見ながら

 

落下しようと思ったが、もう観光とは

 

いえ高齢者に許可は下りないだろう。

 

 

それもあってか、インドの哲人、J・

 

クリシュナムルティが簡単に気絶する

 

人であることも納得がいくのだった。

 

感受性と直感の問題だろう。そこには

 

謎が多く、未明のゾーンだ。

 

バンジーから得るものはなにもない。

 

ただ楽しかっただけだ。登山とは

 

随分違う。遭難や天候悪化への備え

 

や準備といったものもない。気楽な

 

ものだ。ただ飛ぶ時に眼をつむれば

 

いい。瞑らなくても、勝手に気絶し

 

てくれる。短いので記憶に残らない

 

だけ。

 

その違いは山には生活を用意してい

 

く必要があるが、バンジーには生活

 

を考えなくてもいい、ということだ

 

ろうか。

 

川に落ちて濡れることを想定する

 

人は決してジャンプしないだろう。

 

 

暑い。

 

局地的梅雨は、湿度が高い。

 

微熱は未病ではなく、体が気候に

 

合わせているのじゃないか、と

 

思う次第だ。