例えば、「ブログ」という人がいる

 

とすると、その人は僕が立ち止まって

 

もう書くことはない、と言うのも

 

待たずに、スタスタ通り過ぎる通行人

 

なのだ。なにを立ち止まっているのだ?

 

と疑問にも思わないし、冷ややかに

 

僕をギロ視するのでもない。ごく

 

当たり前に通り過ぎるだけ。

 

そうすると、ブロガーは気づかざるを

 

得ない。日記やジャーナリズムの

 

ブログに本当は休みなどない、と。

 

ただ息切れしないように時々、自主的

 

に休憩を採ればいいだけで、毎日は

 

ほんとうに毎日進行している。

 

それを知らされてしまう。

 

この世は生きている。それは自分が

 

生きているのと同じだ、と。

 

 

どうして こうも 

 

悲しみを 

 

振り向かせ たいのか 

 

どうして こうも 

 

せつなさが 

 

なつかしいのか 

 

一生懸命だった あの頃は 

 

なんだった のか 

 

こうして 落ち着いて 

 

人生を 眺めるように なると 

 

どうして こうも 

 

もの足りないん だろう 

 

どうして こうも 

 

悲しいのか 

 

 

この命の 大切さが 

 

生活の 楽しさや 快適さでは 

 

重みが  足りない 

 

苦しさ  それを 

 

乗りこえること 

 

悲しさ  それを 

 

突き抜ける こと

 

その 揺らぎや  迷い 

 

それらが なければ 

 

人生は なんと 

 

もの足りない ことか 

 

 

その 耐え難さが 

 

有難さという もの 

 

ではないのかと 

 

考えて しまう 

 

 

見覚えのある 人が 

 

いなくなって しまった 

 

あなたは 人の記憶に 

 

合わせて 

 

自分の記憶さえ 変えて 

 

その記憶の 自分に 

 

なろうとする 

 

過去は  そのたびに 

 

少しずつ  変わってゆく 

 

彼は  彼女の記憶に 

 

生きようとする 

 

あなたは  僕の記憶に 

 

合わせて 生きようとする 

 

そうして  作られた過去が 

 

僕らの  思い出になり 

 

そういう  思い出劇を 

 

会うたびに  くり返して 

 

相手の中の  自分に 会うのを 

 

楽しみに  している 

 

 

そういう 習慣のない 

 

僕は  街なかで 

 

君に  会うのを  恐れている 

 

君の眼に  過去の僕を 

 

見ようとする 

 

君の眼を  恐れて  

 

僕は  たぶん  今の君を 

 

見るのだろう 

 

これが  君の 

 

恐れている  現実じゃないかと 

 

花に 止まろうとする  

 

モンシロチョウにも 似せて 

 

揺らいでいる  君の姿を 

 

 

愛していると  思った 

 

君の 信じたい  過去が 

 

そこで  何が  

 

起こるの だろうか 

 

 

その悲しみの  水面が  

 

見えるだろうか 

 

悲しみから  頭を突き出して 

 

その世界を  見たことが 

 

あったのだろうか 

 

お互いに  そうすれば 

 

僕も 君も 

 

海坊主の ような 

 

濡れた 自分を 

 

見つめ合う だけ 

 

なのだが 

 

 

胸に  去来するものは 

 

過去に感じた  

 

相手への  憧れや 

 

理想の姿で  それは 

 

相手に 求めた  

 

自分への 期待だったに 

 

違いないのだろう 

 

それでも 

 

僕らに  胸に  

 

行き来 するものがあるならば 

 

それが 過去に 

 

代わるものに  

 

なるのだろうが 

 

それは 事前に 予感させるのだろう 

 

そうして 

 

会うのは 

 

避けられる 

 

相手に 気に入る自分が 

 

期待できない ことは 

 

ただ 恐れでしかないから 

 

 

過去に 安心できる自分を 

 

見つけてくれる ことを 

 

たぶん 友と 呼ぶのだろう 

 

 

それではない 

 

それではない ものでもない 

 

僕は  どこに いるのか 

 

時間のない 世界は 

 

自分のない 世界 

 

闇は 無意識だろうか 

 

終わりが なければ 

 

人間ではない の 

 

だろうか 

 

 

悲しいのは  

 

人間だから  できること 

 

苦しいのは 

 

自分が あるから 

 

なせること 

 

ものごとに 因果を 

 

見ようとするのは 

 

知の鏡で  向かうこと 

 

人間であるのは 

 

それだけで 癒しであり

 

弱き 自分よ

 

なんと  なつかしいことだろう 

 

 

ラッシュアワーでなくても 

 

ホームの 人波に 

 

知った顔を  探す 

 

いるはずもないのに 

 

人の顔は  どうして  

 

そうさせるのか 

 

知っている人 じゃないか 

 

会ったことがある ん 

 

じゃないか  と

 

 

天王星という 惑星は 

 

太陽系で 彼だけが 

 

皆とは 反対回りに 太陽を 

 

回っている 

 

彼は  電車の先頭で 

 

これから来る 景色を 

 

見ているのか 

 

それとも  最後の車両から 

 

過ぎゆく 景色を

 

眺めているのか 

 

それは  車内の人のように 

 

電車と共に 

 

一緒に走る 景色ではないのだろう 

 

過去は 遠くに 見え続け 

 

未来は 瞬時瞬時に 来続ける

 

終わりのない 

 

果てしなく 続く  

 

それが 一度に 見えてしまう

 

今という  世界! を

 

紡(つむ)ぎ 続ける

 

のかも しれない  <6.18

 

 

生かされている 自分を 

 

意識の世界に 当て嵌めると 

 

その操作をしている 

 

もう一人の 自分が 想像できる 

 

その自分の 雲をつかむような 

 

あやふゃさ ったら ない 

 

ここから 鏡を覗き込みながら 

 

同時に 裏から 自分を正面に 

 

見なけりゃ と思うだけで  

 

首が 回らなくて 

 

痛む 気がする 

 

 

君は 誰なのか という 

 

古すぎて  カビでさえ 

 

塵になる 質問は やめよう 

 

この システム 

 

この 機構 

 

この からくり 

 

これ以外に 君が 

 

僕という また僕の自分という 

 

二重にして 一体の 

 

そのためか  存在が 

 

実態として ない 

 

 

ひとりだとか  孤独だとか

 

絶望だとか  孤高だとか 

 

そんな やさしい言葉は 

 

捨ててしまって いい 

 

比べられない 

 

ただ 泥沼に 嵌るように 

 

宇宙に 放り出されたよう 

 

上も 下もない 

 

手に つかめる なにもない 

 

という 

 

僕らは 反応する 機械や 

 

生物で なくていい 

 

どうにかして 

 

数千年を 感じてみたいと 

 

想い 

 

悠久の時が あると 

 

信じたい 

 

もしも  それが 有機的に 

 

質 量ともに あるのならば 

 

僕らは  それに そして 

 

それらに  なってしまうだろう 

 

だが 

 

それになれるだろうか 

 

有理数であり  無理数である

 

ような 

 

水であり  油であるような 

 

そういう 均一な  統一が 

 

自分に 執れるだろうか 

 

 

海であり  山であることに 

 

矛盾さえ 感じないで 

 

その世界を  想像でさえ

 

できるのだろうか 

 

僕らは できないことを 

 

言葉だけで 頭の中でだけは 

 

できると 

 

思って いないだろうか 

 

それらが そのとおりに 

 

あなたの中に あるのなら 

 

孤独は あり得ない 

 

一人であるのは できる状態ではない

 

絶望は  笑ってしまっていい 

 

空気に  化けるだろう 

 

 

その言葉の 欺瞞から  抜ければ 

 

いい 

 

籠っていた 家から 出て 

 

風に 吹かれるようだ 

 

まるで  自分は  

 

洗濯ものの  シャツになった

 

ようだ 

 

空気の うまさに  意味はない 

 

この さわやかさに 

 

どんな 主張も ない

 

 

思わず 

 

愛しているよ と 

 

言ってしまいたく なる 

 

 

君は ブログか? 

 

だから 古い言葉だらけの 

 

ボロい 上着を 

 

着ているんだな 

 

中身の 君は その 

 

古い社会に  合わせようとして 

 

風呂にも  入らないんだ 

 

まるで 

 

平安時代 お香を焚いて 

 

匂いを  ごまさなくては 

 

 

僕は ドブに 飛び込む 

 

ドブを 恐れる必要はないから 

 

そこで  臭いを 味わい  

 

汚いを 楽しんで  

 

それから 汚れをシャワーで 

 

落とせばいい 

 

そうしないと 

 

見た目ばかりの 恐れが 

 

増えるだけ 

 

もう自分の 力量は  知れたから 

 

適度が  わかるんだ 

 

怪我の 多い 人生だったからね 

 

 

矛盾や  気の乗らないことを 

 

することは  避けることではない

 

と 考えるのが  やがて 

 

身に着いた 

 

話し声が 聴こえる 

 

一層で 話す人もいるし 

 

二層で 話す人もいる 

 

三層も 離れると 

 

聴こえや しない 

 

場所を 高く 変えないと 

 

話し言葉じゃない  

 

自分が

 

見えない 聴こえないで 

 

喋っているのに 

 

気づけないんだ 

 

自分の世界が 見えないから 

 

見えている世界が 

 

この世だと 勝手に 

 

思っている 

 

だから 

 

言っても わからない人が 

 

誤解と 錯覚の中で 

 

暮らしている 

 

 

だから 世の中が 

 

宣伝・ 建前・ 言ってるだけに

 

見えるのは 

 

いつも 自分からは 正しい 

 

それが 批判になるのなら 

 

あなたも あなたの自分に 

 

尋ねることが できないと 

 

おかしい 

 

 

自分が おかしいと 見えない 

 

人が 多すぎる 

 

どうして こうも 

 

なにもかも  期待しなくなって

 

しまったのだろうか

 

 

どうして こうも 

 

なにもかも  人情家に 

 

見えてしまうのか 

 

どうして こうも 

 

なんでもない 気持ちの

 

やりとりで 

 

人や 動物への 些細な

 

気持ちで  

 

泣きたくなるのだろうか 

 

 

それは 夢だと わかっている 

 

わかっているのに 

 

僕の 心に 

 

居続けようと する 

 

それが 現実だとわかると 

 

わかるほどに 

 

せつないと 

 

それを そこに 置いて 

 

無視できるのだろう 

 

心が 引き裂かれながら 

 

現実を  慈しむ 

 

そして その理不尽さに 

 

厳かな 不動の  熱さを

 

感じて 

 

感動するのだろう 

 

それからだ 

 

必要なら それを 潰して 

 

壊しに かかるのは 

 

できなければ  今は  

 

そこに ほおっておく 

 

 

この自在さは なんだろう 

 

心のなかの  それは 

 

外から  見えない 

 

今は  ブログでしか  

 

現わせ ない

 

 

暗い海で 海面に 

 

刺激を 与えると  

 

緑の閃光を 放つ 

 

虫がいる 

 

一瞬で  輝き 

 

一瞬で  心 驚き

 

一瞬を 待たず 

 

消えてしまう 

 

 

消えるものなら  

 

僕も 消えてしまい たい 

 

人生はなかった と 

 

済ませられる ものなら 

 

消えてしまう だろう 

 

だが 

 

蛍の ように 

 

数万の 光が 一斉に 

 

光  そして  暗黒に と 

 

明滅する 奇跡を 

 

昔の いくつかの 大陸旅行記に 

 

書かれている 

 

 

数万の 1kmもの シンクロなど 

 

どうやって  合わせているんだ 

 

それは さぞかし  荘厳で 

 

僕らの想いを はるかに 

 

超えるだろう

 

その シンクロニシティ を 

 

見て みたい

 

僕ら 人類の シンクロを

 

見てみたい

 

 

ほんとうに  泣くのは  

 

それからだ 

 

 

泣くのは 

 

それからで いい