散歩に出る。

 

散歩に出ても、同じ道はNGだ。

 

そういう気分はいつもあったよう

 

だが、自然を感じさせる、それが

 

たとえ貧弱な自然であっても、そう

 

いう散歩道は決まって来る。

 

で、同じ道を辿る。子供が小魚を

 

狩猟する湧き水の流れる、小さな池。

 

 

道を変えて、かしわ台駅へ坂を上る。

 

喫茶店をかしわ台駅で探してみる。

 

このまま近くのコメダでもいいし、

 

海老名(駅)に出て図書館のスター

 

バックスでもいいし、さがみ野(駅)

 

に出てマクドナルドでもいい。

 

が、考えると、決まっていたのが

 

わかる。海老名図書館は落ち着かな

 

いし、さがみ野マクドは飽きている。

 

そこでコメダに足を向けた。

 

(なぜか、画像編集ができず、大きいまま)

 

やけにデカいアイスココアがきた。

 

クリームを押すだけで、ココアがあふれ

 

出て、容器の外側を流れる。そこを少な

 

くしてからクリームを押すと、今度は

 

クリームがあふれ出た。

 

さして、面白くもなかったが、帰り

 

は普段辿らない道を選んだので、

 

発見があった。

 

緑の苔の壁である。 

 

 

 

これだけ苔に年季が入っていると、

 

夏も陽射しが入らず、湿気が保たれ

 

るのだろう。夏の散歩には涼しいか

 

もしれない。

 

 

瘴気(しょうき)という言葉が思い

 

浮かぶ。古代では眼に見えない感染

 

症などを呼び起こす原因と考えられ

 

た、悪い空気のことだが、魔王を

 

呼び起こすとも言われた。

 

暗く、湿った処はそういう瘴気を

 

思い起こす。

 

しかし、これだけ苔をまとった壁

 

というのはあまり見ない。

 

そこから目久尻川へ降りてゆくと、

 

川を堰き止め横の段差に流れを

 

変えた堰に出る。そこに人二人

 

くらいで通れる狭い橋がかかって

 

いるが、そこにいた老人に話しか

 

けられた。

 

大きな鯉が下で数十匹泳いでいるが、

 

他の魚がいないと言う。50年も?

 

川を見ているが、魚が最近は見ない、

 

と。アユは夕方によく泳いでいる

 

ので、その場所を教えたが、内心で

 

は呆れている。

 

50年と言えば、ほぼ半生を越える。

 

それだけ散歩して川を覗いて、魚

 

を見ることがたぶん、ほぼない、と

 

いうのは本気で魚を見ようとした

 

ことがなかったのだろう。

 

魚が水面に出て空気を吸うことが

 

あるのを見ても、それがどういう

 

ことかどうでもよかったのだろう。

 

水面を見て、いないと思えば、それ

 

で終わりだったのだろう。

 

アユは水面から戻る際におよそ、

 

体を反転させるので、その時に

 

一瞬、銀影が光り、見える。

 

それを見たことがないのだろう。

 

50年も。

 

川に魚がいるかどうかなど、どう

 

でもいいのだ。生態系に興味もな

 

いだろうし、魚が絶滅したら、TV

 

のニュースで知り、食卓に魚が並ば

 

なくなり、その時に初めて慌てる

 

タイプだ。しあわせな老後生活の

 

見本のようなのだが、本人はそれ

 

を幸せと思っているかどうか。

 

楽しめばいいだけなのだが、・・。

 

 

北アルプスの四季という番組を観た

 

が、感動はいつものようで、いつも

 

あり、なにがどうとは言い難く、また

 

言いたくなかった。自分の庭のような

 

感覚は昔のままだった。

 

<故郷(ふるさと)は遠きにありて

 

思ふもの> という室生犀星の詩がある

 

が、続きは 

 

<そして 悲しくうたふもの> とある。

 

なぜ悲しいのか。その続きがある、対句

 

として、

 

<よしや

 

うらぶれて 異土の乞食となるとても

 

帰るところに あるまじや >

 

知らなかったが、意味がわからない。

 

故郷は遠くから思えばいい。帰ろうと

 

は思わないほうがいい、ということ

 

だろうか。それは例えば、故郷に久々

 

に帰っても、歓迎されるのは三日くら

 

いで、あとはいつも居たような風に

 

変わり、新鮮さはなくなる、といった

 

ようなことだろうか。

 

だから、(例え、虐げられた環境でも、

 

収容所でも、刑務所でも)遠くから

 

思って、悲しい気持ちを抱く情感が

 

いい、と言うのだろう。

 

そういう悲しさは人には見えない

 

憧れなのだろう。田舎の現実ではない、

 

都会の憧憬を謳ったものなのだろう。

 

 

自然を求める僕の散歩はそういう意味

 

で、憧れの片鱗に出会いたいのだ、

 

という気がする。