もう考えて、考えて、考え抜いて

 

それで結論が出ても、それを信じ

 

られないのは、前から知っていたが、

 

それは僕らの個人の生命が進化や

 

人間の全体ではないからだと思って

 

いたからだが、現在そういう心境で

 

はなくなった。

 

そうして僕らが行動を決定してきた

 

と勘違いしてきたことが明らかに

 

感じられるようになってきたことが

 

大きい。知性の根底を疑っているの

 

ではない。それではすべての意義や

 

意味というものが崩壊してしまう。

 

知性の役目が限定的だというのは

 

決定的な事項だが、問題はそれが

 

どんな風に、どういうことで、どれ

 

くらいの範囲で信じられないという

 

それぞれのテリトリーを明らかに

 

することだろう。

 

その予定はかなり前からわかって

 

いることだったと思う。しかし、

 

フェルマーがフェルマーの定理を

 

解説するには時間がないというのを

 

「余白がない」と語ったように、僕

 

もそれだけの寿命がないのは承知し

 

ている。

 

そこに残りの時間を集中させてこな

 

かったのは、ひとつには自分の悪い

 

癖でそれほど重要ではないと感じて

 

いたからだ。正確にはそれほど重要

 

だとは見做したくなかったから。

 

もうひとつは同じことだが、それに

 

人生を集中させるほどの魅力や意欲

 

を掻き立てられなかったからだ。

 

どこか嘘くさく、虚しい匂いを感じ

 

ていたから。

 

ただヒントのような言葉は少ないが、

 

ブログに散りばめるように残したの

 

で、勘のいい人なら全体からそれを

 

抽出できるだろう。自分にはそれを

 

拾うほどの根気はない。メモを残し

 

ただけだ。

 

小林(秀雄)によると画家の巨匠

 

モネは晩年にやっといろいろ描ける

 

ようになったのに(もう長くない)

 

というようなことを言ったと書いて

 

いる。同じセザンヌももう有名に

 

なった頃だが、画布に一点白く塗り

 

残した絵を持っていたそうだ。その

 

理由を聞いて、そこに塗る色がわか

 

らないと答えたそうだ。著名な画家

 

なのにあと一点の空白を塗るのに

 

途方に暮れるということに驚いた

 

そうだが、そのこだわりというのが

 

僕らの想像を超えた世界で、すべて

 

の色が繋がると言ったような画布を

 

彼らは見ているのだ。

 

たしか作家のバルザックだと記憶し

 

ているが、登場人物の名前が決まら

 

ずに苦吟して、街中を歩き回って

 

ある看板を見つけてそこに書かれた

 

名前に決定して、大喜びしたという。

 

彼らは似ている。うらやましいくら

 

い、彼らが書きたかった、描きた

 

かった世界が見え、わかっている

 

のだ。

 

モネはセザンヌではない。ひとりが

 

ひとりであることはそういうことで

 

あるという気がする。代えがたいも

 

のがなければ、彼らはこだわらなか

 

っただろう。

 

モネはモネの絵を描いた。セザンヌは

 

セザンヌの絵を描いた。それは僕らが

 

絵を描くということで想像するものと

 

は大分違った事情が存在すると思う。

 

結局、それぞれの世界は究められな

 

いのだ。だから、僕らは本来、終わる

 

ことはできないのだ。なにか自分以外

 

に代替品で間に合わせることができる

 

と思っている段階ではなにも、どこに

 

も到達していないのも同じなのだ。

 

僕にはそうして天まで届けと両手を

 

伸ばして見上げているような生き方を

 

している一筋の人間を美しいと思う。

 

彼らは天に届くことなど望んでいな

 

いに違いない。が、そうせざるを得な

 

い。自分の中のなにかがそれを希求

 

してその衝動が収まることはない

 

からだ。

 

彼ら、天才を見ていると、おお、生き

 

るとはなんということだ、と過去に

 

多くの人たちが感嘆した、その気持ち

 

がわかる、というものだ。天才は元々

 

神経障害者で、自分の人格の不足を

 

知っていただろう。それゆえに自分

 

の仕事に集中が増したという考えも

 

少しはましに見えそうだ。

 

僕らは自分に足りないものを本能的

 

に補おうという、補填しようという

 

心の働きがあるのかもしれない。

 

それが彼らを果てのない荒野へと

 

誘うというロマンが生まれるのかも

 

しれない。

 

さ迷え、それは僕らの本質的な宿命

 

かもしれない、迷いは正しい。

 

川は流れ続けるから川だ。澱みに

 

浮かぶようなら、その自分は落ち

 

着いたつもりかもしれないが、ただ

 

澱みに浮かぶ泡になっただけだ。

 

安心したいために終わったのだ。

 

これが僕がブログを書き続けながら、

 

同時に迷い続けたほんとうの理由か

 

もしれない。

 

 

彷徨え、 さ迷え、 

 

それでこそ 人生の 

 

饗宴 

 

 

飲んで  歌い 

 

享楽せよ 

 

 

その 悲喜劇の 

 

舞台に立って 

 

恥を かきながら

 

生きてこそ