一般的に僕らは人生で夢を描き、

 

夢の実現を目指して生きる、と

 

言われている。

 

夢の実現とは何だろう?

 

それは夢で描いた光景を現実に

 

写すこと、創造することだろう、

 

とするとそれは適わない夢だった

 

ということになると、僕は学んだ。

 

それは夢を見るな、という意味で

 

はない。まったく反対でもある

 

ようで、夢を見るのはその意識に

 

よって二つの意味に分かれること

 

を指摘したいだけだ。

 

僕らは美しい夢を描くべきだ。

 

特にその動機には相応しい。

 

そして、夢はその性質上、結果を

 

求めるべきもの、現実の結果と

 

しての実現を夢見るべきものでは

 

ない、と僕は感じる。それは僕が

 

描く自分の思いや考えと言うべき

 

ものではない。

 

実現するものならば、それは初め

 

から現実に即していて、それに

 

適した方法で努力すれば、時期に

 

応じて適うもので、それは成功と

 

言われるものだ。

 

僕らはそれをすべて夢だと思って

 

いるが、そこには微妙な違いが

 

ある。僕らが見る夢、思い描く夢

 

はほぼ現実を起点にして幻のよう

 

に描かれるが、その結果がはっきり

 

した形をしているものは、全部が

 

予定されたものだ。

 

例えば、夢が予定されないのは、

 

人類の夢だった、空を飛ぶことだっ

 

たろう。これは何度もそう書いたが、

 

その意識にまで潜って書いてみよう

 

と思う。

 

僕らは鳥が自由に空を飛ぶさまを

 

見て、自分も鳥のように飛ぶさまを

 

夢見た。僕らは飛べただろうか?

 

僕らは飛べていない、まだ。

 

代わりに航空機というおもちゃを

 

造り、それに乗り込んで空をかなり

 

不自由に滑空している。成功したの

 

は自分を機体に乗せることで、どう

 

にか飛ぶことができただけで、

 

僕らは好きに地上から軽やかに

 

飛び立つなどできない。今日は

 

家の2階の窓から入って、ただいま

 

を言おうということはできていない。

 

僕らは鳥になることは、直接は

 

たぶん、できない。鳥の姿になろう

 

とは思っていない。人間のまま

 

飛んでみたいだけだ。

 

ただ、ロケットエンジンを抱えて、

 

かなり訓練を必要とするが、航空機

 

と並走して高空を跳ぶことはできて

 

いる。ロケットマンと呼ばれている。

 

または、車を飛ぶ仕様にして、道路

 

から飛び立つことはできている。

 

空飛ぶ車は実用化されているが、

 

まだ法規が整っていない。やたら

 

飛んで、落ちてきた時にどこが

 

責任をどの程度負うのか、という

 

問題もあるだろう。

 

人間が全員、鳥仕様の体に進化して

 

しまったら、もう法はすべてそれ

 

に合わせて改正するしかない。

 

世界の交通事情と交通インフラは

 

一変してしまうだろう。

 

だから、夢を持って生きる、と

 

いう場合と夢に生きるというのは、

 

正しく分けるなら、夢を持って

 

生きるというのは、現実を生きる

 

が実現したい願望があるという

 

ことだ。夢に生きるというのは、

 

現実を離れて、現実に居ながら、

 

精神の土台は夢の世界を生きよう

 

とすることだ。

 

その時、夢の中に意識があること

 

は、考えたり意思することは

 

すべて夢仕様で、幻の如くとなる。

 

描く夢は現実という舞台では完成し

 

ないし、成功もしない。

 

そして、それでいいと感じている

 

はずだ。それが美を汚さず、褪せ

 

なくさせて、美しさを保つことだ

 

からだ。僕らはそこに美を感じ、

 

愛さえ感じていて、それに気づか

 

なくてもそれをなんとなく知って

 

いる。

 

お涙頂戴の恋愛映画やドラマが

 

ほぼ悲劇とハッピーエンドなのは

 

そのためで、中途半端になると、

 

現実にいくつも転がっているから

 

だ。あり得ない永遠の世界がその

 

先に広がるような憧憬や幻影が

 

描けないような物語に僕らは感動

 

して泣けるようにはできていない。

 

主人公は確実に夢に生きる。

 

限られた短い命を生きたり、結婚

 

して幸せに過ごしました、と。

 

愛する二人は永遠を夢見ました、

 

と。

 

それは現実になることではない。

 

現実にはならないのだ。それで

 

いいからだ。永遠は向こうの

 

世界の出来事で、こちらにはない

 

要素のことなのだ、夢で見るしか。

 

 

だから、夢は美しいままでいい、

 

叶わなくていいのだ、と僕は

 

書いた。それが夢に生きること

 

だからだ。夢に生きるのは、

 

成功することではない。夢に生き

 

るなら、それがそれでもう達成して

 

いることだ。それが現実に成功し

 

ないことに悩むようなら、それは

 

夢に生きることではない。現実に

 

完成する一時の成功を夢見ている

 

だけで、その夢で気持ちを高揚させ

 

て、生きているのであって、あなた

 

はやはり現実に生きようとしている。

 

あなたが実際にどう望もうと、どう

 

思おうと。

 

それは夢に生きることではない。

 

 

だから、夢に生きる人は子供のよう

 

に天真爛漫に見えることだ。それ

 

だけで美しいのは、そう見えるだけ

 

でなく、夢の中で生きているから。

 

 

そういう幼稚園のような人を見かけ

 

たら、そっと隠し続けているはず

 

だから、少しずつ近づいて、その

 

夢の所在を尋ねてみるといい。

 

その人自身も気づいていなかったら、

 

教えてあげることも、できるかも

 

しれない。そういう子供は自分が

 

子供の時は多くいるのだが、親は

 

社会に出る心配をして、普通の子供

 

にしようとして、その夢を壊して

 

しまう。そう、本物の夢を壊して

 

きたのは、僕ら自身なのだ。

 

夢に生きる者は確かに自分で自分

 

を守れない者も多くいるだろう

 

から、その干渉が直ちに悪いとは

 

決まらないが、方法はあるものだ。

 

なにかしらあるものだ。ただ、

 

その前に夢に生きる美しさを正確

 

に意識に捉えられなければ、僕ら

 

はただのモグラ叩きをしてしまう。

 

 

僕はそういう流れへの抵抗として、

 

自閉症などは無意識の反省として、

 

自分を責めなくてもいいのに、

 

そういう結果になってしまった

 

のではないか、とも思っている。

 

世間という親や兄弟、会社の同僚、

 

上司からの精神の抑圧に対して、

 

自分の魂を守るために神経や精神

 

の病の形で抑圧のエネルギーがその

 

傾向として国民病のように現れる

 

のは、ないことではないと。

 

 

 

2.応用編 

 

であるから、理想の革命ほど残虐な

 

ものはない。もう子供ではなく、

 

自分という不純物が考える代物で

 

自分中心にそれが(自分の信じる

 

という)できているという冷静に

 

して確固たることが見えない。

 

西郷隆盛は同情心のかたまりの

 

ような人で、感情の度合いが底を

 

抜けていたので、片や「愛の人」

 

だったが、明治維新の維新のため

 

なら家族の犠牲は仕方ないものと

 

して扱った。彼の弟三人はほぼ戦死

 

している。西郷従道が残ったが、

 

彼も兄と戦って、頭に銃弾を受け、

 

奇跡的に助かって、その後は明治

 

新政府に入って、最前線には出ら

 

れなかったので。命を長らえた。

 

兄弟ではないが、西郷の島妻には

 

子が二人いて、その長男の菊次郎

 

も西南戦争に16歳で参戦して足に

 

重傷を負って片足ひざ下を切断した。

 

桐野の心遣いで戦地に残された。

 

その時西郷の老僕が一緒に残され、

 

菊次郎を背負って、戦場を離れ政府

 

側の従道の処に投降した。それで

 

助かって、後に台湾や京都で役職に

 

つき、最後は島津藩の金山鉱業長を

 

辞して、65歳で亡くなっている。

 

 

理想は即、悪と言うのではないが、

 

理想の思想に生きるというのは、

 

夢に生きるのではなく、夢(思想=

 

自我)という考え・願望に囚われて

 

生きようとすることを表している。

 

理想を全体のためにと美化し、転化

 

しているが、実際は思想のため、詰め

 

ては自分のためであるという考えまで

 

辿り着いていない。

 

だから、夢に生きる者はしあわせ

 

だが、理想に生きようとする者は

 

見果てぬ夢を自身では理解せず、

 

理想のためなら人を犠牲にしても

 

という、破壊の行動から逃れられ

 

ない。

 

 

さらに明治維新はどういう歴史の

 

運動であったか、現代からどう判断

 

を下すべきかは、世界から日本が認め

 

られるために明治政府が(出した神仏

 

分離令ですっかり廃れてしまった)

 

京都を復興することに着目したり、

 

まだ複雑な過程や問題を抱えて、日本

 

の精神史にも触れることでもあるので、

 

今は検討課目が多すぎて、皆目見当が

 

つかない。

 

 

(ケントウかもく が多すぎて かいもく

 

ケントウがつかない   検討課目は

 

検討課題だろう、・・日本語は難しい。

 

‐-心の笑い声)