この間小林秀雄を読んだ。小林は

 

小林で、例えば小林秀雄著「私の

 

人生観」を読んだ、とはならない。

 

小林の物事に直達する眼は小林から

 

学んだものだからだ。

 

小林が書いた思考、その知識として

 

の本や随筆・評論という産物では

 

ないからだ。そこには伺い知れない

 

「もの」のかたまりがある。これ

 

には自身で見参した経験がないと、

 

いかようにも理解ができない、届か

 

ない。それが小林が書いたもので

 

戦後の評論を一新したと言われる

 

評論家でありながら、ベストセラー

 

を1冊も出さなかったという曰(いわ)

 

れがあるのだ。昭和の文壇で追随を

 

許さない評価を得ながら、本が売れ

 

なかったというのは面白いエピソ―ド

 

だ。

 

買った人は誰かというと文化人とか

 

作家・知識人だ。文章のプロと言われ

 

る人たちが買って、高い評価をした

 

ので、小林の地位は揺るぎなかった。

 

読んでもわからない、というのは

 

知識優先の現代では、ますます不利

 

になるが、これは地底から変化する

 

人間の意識革命が起こらないと

 

変わりようもないことなので、誰

 

にも、わからないからといって

 

簡単に否定できない、ともわかる

 

ことだ。

 

その「私の人生観」という講演の

 

記述された文章を読んだわけだが、

 

口述筆記体ではないので、必ず、

 

小林があとでそれを手直しする。

 

半ば著作に近いもので、小林自身が

 

その中で言うように書いたものを

 

信頼する、という主張にはこだわら

 

なくていい。

 

読んで感じたのは、よく覚えている

 

ことだ。これを読んで50年くらい

 

経っている。途中で少しだけ資料読み

 

はしたが、それにしてもこれだけ

 

はっきり覚えているとは信じ難い。

 

その通りなのだ。覚えているのでは

 

なく、内容が自分の血と肉になって

 

いるので自分の思いを読むような

 

もので、それを覚えている、と勘違い

 

したのだ。

 

つまり、小林を読むのは僕にとっては

 

反省と同じことなのだ、と思った。

 

だから、なつかしくない、まったく。

 

現に今の思考の土台となっているの

 

だから、現役で活躍しているという

 

ことだ。一応、「人生観」だけは読ん

 

だが、あとは読む気になれなかった。

 

ビートルズをもう一度聴こうとする

 

ようなものだ。

 

 

今日はクリシュナムルティの日記を


読む機会があった。この本はいつ


読んだのか、記憶がなかった。それで


本当に一度でも長く読んだのことが


あるのかも覚えていない。

 

しかし、小林と同じ風景はあった。

 

彼の文章は概念を感覚的な意識で

 

辿る、といった風な思考形式で

 

分析思考がまるで入らない。

 

そこが微妙に僕らの普段の思考と

 

違う処だが、僕でも意識しない

 

と見分けられない。結果は思考の

 

言葉になるからだ。

 

例えば、::

 

「時間は意識とその内容を生みだし

 

てきた。意識は時間が培養してきた

 

ものだ。内容物が、意識をつくり

 

あげる。内容物なしには、私たちが

 

知っている限りの意識というものは

 

存在しない。そのとき無がある。

 

(中略)苦痛や悲しみ、知識といっ

 

たもの(中略)この動きが時間であり、

 

思考であり、ものを測る尺度なのだ。

 

それは馬鹿げた遊びで、あなたが独り

 

で隠れん坊をしているのであって、

 

思考の影と実体、思考の過去と未来

 

が戯れているにすぎない。思考は

 

この瞬間を捉えることができない。」

 

:::

 

これは物事の見方・観察方法では

 

ない。むしろそういう思考ではなにも

 

見えないよ、という指摘だ。

 

指導するつもりはないが、目に見えな

 

い時間や思考の動きを外すと何が見え

 

るかを言葉にしようとしたものだ。

 

僕は30代の頃にそのからくりを暴こう

 

としてJ・クリシュナムルティの本を

 

続けて読んでいた。

 

そして、彼の自然描写に興覚めして

 

いた。あまりにモノトーンな描写は

 

人の感動体系を無視した、無機質な

 

感じでこれでは誰が読んでも感動

 

しない、とふつうに感じられるもの

 

だったからだ。だから、思考につい

 

ても時間や知識という物事について

 

も理解するのは壁があった。わかり

 

そうでわからない壁だった。

 

今、彼のそういう無味乾燥に思えた

 

描写が読んでいられる。前と同じに

 

感動する体の表現というもののない

 

ものだが、僕には自然の在り方に

 

共感するスペースが心に培養され

 

たらしい。

 

僕の認識も非認識生活も、この二人

 

から間接に(彼らの言葉を実行して、

 

その経験を通して)学んだものだ。

 

意識的に知識で学習できるものは

 

そうすればいいが、彼らの言うのは

 

彼らの立ち位置まで自分を運ばなけれ

 

ば、決して何も見えない、そういう

 

位置だ。

 

(僕は最近、新生と呼んだ、生活を

 

自分ごと放り投げることをしなくて

 

は、と実行しているつもりの今だ)

 

だから、小林にもクリシュナムルティ

 

にも同じ場所にいながら、異なる

 

言葉が生まれる。異なる見方が生ま

 

れる、そういう自由な爽快さを感じ

 

ることができる。

 

これも立派な反省なのだな、と思わ

 

せる、そして思わせられた心の転換

 

のようなものがあった。

 

いろいろな反省があるものだ。そう

 

して、自分が着実に自分の道を進んで

 

いるのだ、と知る。

 

ちゃんと未開の土地を歩いている。

 

不思議な嬉しさだ。また明日が変わる

 

それは今、知ることができないこと

 

だが、時がたてばそれを知るのは確実

 

だというのは反省で知る。わからない

 

から歩くし、わからないから正解の

 

方向なのだ。まだまだ勇気をもって

 

進むべきだろう。

 

なぜか、心の底から感謝の念が湧き

 

おこる。これがしあわせの土台だと

 

知る瞬間だ。あとはどうでもいい。

 

生活は流れるものだ。こういう時に

 

流れに身を任せるのも一興だと、余裕

 

になるのだ。