大河ドラマ「光る君へ」が始まった。

 

以前から平安時代への違和感を感じて

 

いたので、まとめてここで報告して

 

みよう。題の「空気の床」は時代の

 

床ということで、家の床は部屋の土台

 

で、床がなければ歩けない。

 

歴史を鑑みる時に僕らが忘れている

 

空気の床がある、という意。

 


平安貴族は雅な生活を送ったと思われ

 

ている常識な感覚だが、こと衛生に

 

関してはそうではなかった。僕らは

 

汚れを落とし、体を清潔に保つために

 

風呂に入る。ところが、貴族は紫式部

 

もそうだったろう、僕らのように

 

湯に入ることはなかった。

 

風呂殿というのはあったが、そこは

 

蒸し風呂で尻の下に布を敷き、麻の

 

単衣を着て入る。布は風呂敷、単衣

 

は浴衣の元・語源らしい。

 

そこで汗を拭くぐらい。湯をかける

 

こともあったが、垢を落とすくらい

 

で庶民のように汚れを洗い流すと

 

いう意識はなかったようだ。そして、

 

酷いのは入る日は陰陽師の占う日で

 

決められたので、23日に1回くらい。

 

となると、体が臭う。それをお香で

 

誤魔化したのだから、お香は貴族生活

 

という優雅な理由で使われたのでは

 

なかった。匂いで自分の個性を出す、

 

香水の役目もしていた。男は少しの

 

女の体臭は我慢すべきものだった。

 


平安時代は疫病が流行り、死体が街に

 

ごろごろあったという時期もあるので

 

何もかもが最先端の学問であった陰陽師

 

の占いで生活していたのである。

 

風呂も禊をするような意識だったらしい。

 

 

トイレも平安京では屏風や襖で簡単に

 

囲った樋殿(ひでん)と呼ばれるところ

 

に、樋箱(ひばこ)と呼ばれる簡易

 

トイレを置いていた。

 

それを下の者に世話させていたが、

 

庶民はそうそう設置できなかったので、

 

今の中国のように道端・路地などで

 

排泄していた。だから、どこもかしこ

 

も臭かったと想像できる。

 

芥川龍之介も題材を取っていた「今昔

 

物語」(本朝の部(世俗))にも、

 

蛇性の淫ーその壱で「今は昔、夏の頃、

 

一人の若い女が、京の近衛の大路を

 

西へ歩いていた。

 

小一条というのは宗形神社のある処

 

だが、その北側を歩いているうちに、

 

生理的欲求に堪えられなかったので

 

あろう、土塀に向かって南向きに

 

うずくまり、小用を足した」とある。

 

今の京都でなくても、若い女が

 

皆が通る大路の土塀で小用を足す

 

など想像もしない。それほど

 

平安京では当たり前のことだった

 

のだろう。実際この説話でも、女

 

が長く坐っているので、女の従者

 

の童女が泣きだして、それを従者

 

を連れた馬上の男が心配して声を

 

かける(蛇、女の陰を見て、欲を

 

発し、穴を出でて刀に当りて死す

 

る物語)。

 

それはある意味、おおらかな時代で

 

あったかもしれない。どこも臭いの

 

はいただけないが、・・。

 

 

それに街には車が走っていないから、

 

信号もない。車に注意しない、信号

 

に気も使わない。それだけで日常の

 

心配意識は解放されるだろう。

 

そして、どこを歩いても、どの家に

 

入ってもないものがある。

 

なんだ?

 

時計である。腕時計も置時計も

 

掛け時計もない。夕方になって

 

今何時だろう、と僕らはすぐに

 

時間を気にするが、それをほん

 

とうに気にする必要があるの

 

だろうか。

 

しかし、平安時代に現代人が

 

飛んだら、信号も時計もない

 

周辺・生活になにか不安がして

 

くるのではないか。

 

今まで当たり前にあって、そこに

 

生活の基盤を置いていた時間が

 

なくなったら、。。。

 

それを経験したらと想像すると、

 

そうなるのだろうと感じる。

 

その生活では日々ものごとに感じ

 

る床(土台)が揺らぐのではないか。

 

そういう気持ちの入らない人が時代

 

考証をする歴史感覚とか歴史評価

 

というのはなにかに欠けるのでは

 

ないか、と僕は思い続けてきた。

 

――という話である。

 

「今昔物語」の説話ではなく、現実

 

である、これは。

 

なので「光る君へ」には時計どころか、

 

電信柱も電線も冷蔵庫も出てこない。

 

これは当たり前すぎることか笑。。。

 


前にも書いたように歴史ドラマは娯楽

 

である。それはほぼ現代を意識した

 

物語なのだ。以前はあったが、最近

 

では中世の女が眉毛を剃ったり、

 

お歯黒を塗って画面に出て来たりは

 

しない。美人女優も台無しになる

 

からだろう。

 

文豪・谷崎潤一郎は眉化粧やお歯黒に

 

妖艶さを感じると書いているが。明治

 

期に眉化粧もお歯黒も禁止された。

 

そういう視聴者用の時代考証に嘘が

 

まかり通る。

 

江戸時代末期でも武士はその諸法度に

 

制限されて、とても窮屈な生活だった。

 

庶民を勝手に斬り殺したりすると、

 

御家断絶・切腹という最悪の憂き目を

 

見る。だから、現代の思考・考え方で

 

ドラマの脚本は書かれる。歴史ものの

 

ドラマは雰囲気を楽しめばいいのだ。

 

 

教科書にも、日本は嘘はないだろうが、

 

わざと書かれないことは多い。歴史は

 

全体の趣旨が特に歪曲されていて、

 

そうではないとする修正歴史の本が

 

書店には多く並んでいる。中国や韓国

 

よりはましだと思いながらも、歴史

 

の扱いは大変だと思う次第だ。

 

自分で掘り出してみないと、何がどう

 

なっているのかがわからない時だ、

 

今時は。

 

自然や人性に関する基本姿勢・見識

 

があれば、30冊を読むまでもなく、

 

歴史の本の選び方がわかるはずだ。

 

そこからは読むべき歴史本は限られる。

 

しかし、それが実生活で直ぐに何かの

 

役に立つというのではないから、調べ

 

る人もなく、マニアまかせで歴史の

 

不毛はまだしばらく続くのだろう。