かと言って、・・・・・。

 

5分くらいの思考があって、そこ

 

からニーチェについて書くのは

 

それが例え、周辺からだとして

 

も時期尚早だと。だからと言って、

 

他に書く予定もないし、・・・と。

 

 

始めに戻って、かと言って、何を

 

書けばいいのか、となる。

 

まずはニーチェを忘れることだと

 

思う。それはニーチェの思想を

 

ひとまず置いておくことだ。

 

ニーチェの妹に拠る原本の改竄

 

がどれくらいのものかわから

 

ないが、力への意志という晩年

 

に編纂された遺稿は、ニーチェの

 

膨大なメモ断片を整理したもので

 

あり、妹とメモ書きが読める唯一

 

の編者ペーター・ガストが携わっ

 

たが、ガストは妹のニーチェへの

 

無理解に困惑したという。そして、

 

後に編者を外され、妹が全集の

 

発刊をすることになった。これ

 

がヒットラーとも会った妹が

 

ヒットラーのナチズム思想に

 

沿うように改竄したという非難

 

になる。実際、利用されている。

 

なので、最後の「力への意志」は

 

ニーチェを読むにあたって鬼門の

 

ようなもので、まじめに読んでし

 

まうと混乱する体のものかも知れ

 

ない。妹エリーザベトはニーチェ

 

は理解できなかったが、かなりの

 

やり手で著作権を盾に、ニーチェ

 

の死後、ガストを首にしてニーチェ

 

の文庫をつくり、遺稿を含め、全集

 

を編集したが、その手紙についても、

 

ニーチェの名誉のために(と言って

 

もニーチェ本人が書いたのだが)妹

 

の手で改竄したことが指摘されて

 

いる。どうも手紙と「力への意志」

 

は別物として読んだ方がよさそうだ。                                                                                                                         

 

「全集編者の読むニーチェ ーグロイター

 

版全集編纂の道程」という本があり、

 

:ナチスに利用されたニーチェ、妹

 

エリーザベトによる私物化…。著者

 

モンティナーリらのイタリア語訳の

 

計画は、ねじ曲げられた全集原本を

 

前に、急遽、自分たちで全集を編む

 

方針へと変更された。多様に解釈され

 

るがゆえに利用されたニーチェを、

 

遺稿の精査から始まる歴史的、文献学

 

的な手法でニーチェ自身にとり戻す。

 

寄稿文、講演による大仕事の顛末と

 

その成果。:

 

と解説されているから、ある程度は

 

成果があったのだろうが、文献学的な

 

アプローチだけでどれだけ改竄を

 

見抜けたかはやはり、未知数だろう。

 

なにはともあれ、ニーチェはいろん

 

な解釈ができたので、いろんな利用

 

(誤解・改竄・曲解)がされたとも

 

言える。

 

それは本質的に言葉の限界という

 

哲学や思想全般に見られる、知の

 

限界が示された一例なのだろう。