昨日のブログ記事の解題として ―::

 

<考えと瞑想の仕方>

 

解題が必要かどうか、しかとわからないが、 

 

このブログ1年ほど遡って所々ポイントの例 

 

読まないとわからないことが多いと聞く(実際、

 

聞いたことないが、笑)

 

まず理解しがたいのは何百度も経験して、 

 

それがすぐに気がつかないのはおかしいだろ、 

 

ということか。心が相手にしているのは自分で

 

あるのが多く、その背後には必ず自分がいる。 

 

これが相手が物象であるなら、目の前に見えるし、 

 

どこどうやればいいか、手や道具や機器で

 

試すことができるが、心そういかない。

 

自我自分隠すのが商売のようなものだから、 

 

うまい。始めから考えようとすると失敗する。 

 

それは表面的な因子は見つかるかもしれないが、 

 

真の隠れた因子そこに出てこない。

 

僕も自分が気がつかない支えを隠していたんじゃ

 

ないか、と考えたのも、そういう自分というシステム 

 

が備える、自分には見えない事情による。その

 

まま考え続けても答えが出てこないのは知って

 

いる。 それで半瞑想状態になり、イメージの

 

流れるにまかせ、それから因子探ろうとした

 

のだ。

 

僕ら答え考えて見つけるものだということ

 

に慣れているし、そればかりなので慣れ過ぎ 

 

ていること忘れてさえいる。それで最初から

 

抽象に適応しないと知らず考えてしまう。

 

答え問題が正確にならないと、正しい答え 

 

導けない。そのためにそのものの、つまり対象 

 

の現象なり、物象なり(ものごと)が っきりして 

 

いなければ、いくら考えても堂々巡りするだけ

 

なのだ。眠れない。

 

ところが、心の事象すべて抽象的でイメージ  

 

でしかないから、知が扱う概念や観念と同じ 

 

架空のものに過ぎない。そこで始めから考えて 

 

しまうと、架空のもの仮想で整理しようとする

 

のだから不適応、当然、うまくいかない。 

 

地図やマニュアルや案内本、技術書などその手 

 

の本が役に立つのは考える対象が、確実に 

 

そこに在るものだからだ。 

 

僕が半瞑想で突き止めたのはその真の対象 

 

だったのだ。それそれなりに訓練の期間が 

 

あったからだ。よく使う例また出すが、自分 

 

は慣れてしまったので気づかなかったが、 

 

これコツとか極意のようなもので、体得する  

 

ものだ。子供に自転車を乗るのを、まず「自転車 

 

を乗るために」とかの本を読ませる親はいない。

 

後ろで支えているからと言って、子供にいきなり 

 

自転車に載せる筈だ。そうして覚えるのが、

 

自転車に乗るという、体のコツだ。考えていては 

 

いつまでたっても乗れない。 

 

心の悩みはこれとよく似ている。だが、対象は

 

心だ、厄介な相手だ。体の動きを止めて心の

 

動きも止めてしまい、その状態で、知の働きも 

 

止めてしまう。考えない。これらがまずできる

 

ようになるのが第一段階。 

 

ここから小さなトラブルが出てくる。心のゴミ 

 

掃除が済んでいないからだ。それが済むのが

 

第二段階。

 

次にふつうは瞑想に入いる、というが、正確

 

には瞑想が入いって来やすい心身の状態を

 

保つということ。雑念が残った状態では、

 

来ない。それでも心が落ち着いたりするかも 

 

しれないが、それは心の体操に過ぎない、

 

健康管理の一環だ。

 

瞑想は待たずに待たなくてはならない。

 

結果もない。五感は消滅、神経も静止の状態

 

で目に見える結果を期待するのは見当違いだ。 

 

だが、続けていると、やがてどこかで自分が 

 

変化していることに気づく。それは深い部分 

 

なので、ふつう気づかない。徐々に目覚める 

 

ので、結果(答え)を早くに期待する僕らの習慣 

 

には沿わないし、馴染めない。これ自分

 

ほんとうに変えたい、変えねばならないという 

 

動機がある人向きである。その他の人は 

 

イメージ瞑想で心のトラブルの因子を探す方が

 

役立つのでないか。

 

瞑想の可能性でなにかをなさんとしてしまう人 

 

は、深刻な問題に立ち向かうことになりやすい 

 

だろう。あまりに少ないので、危惧することもない  

 

のだろうが、 ・・・・。

 

 

 

::

瞑想落ち着いた静かな環境必要とする。

 

寒くなく、暑くなく、整え、座る。

 

をまっすぐにと言う、と大抵の人は背中に 

 

どこか力が入っていて、座していて、疲れる。 

 

重い頭をストンとのせる座し方があって、それ 

 

調べるといい。長時間でも疲れない。

 

ろうそくの炎とか鉛筆を立てたりとか、それを

 

見つめることで、最初の集中をする。眼を

 

開いている人もいるし、閉じる人もいる。

 

ポイントは頭上が天を向くこと、足は裸足で、 

 

を通過させること。慣れれば、それ以外は

 

形式化してしまうので、どうでもよくなる。 

 

足組も痺れなければ構わない。結跏趺坐 

 

とか崩してもいい。

 

電車の中でも、雑踏でも、僕らが経験する 

 

ように一瞬で瞑に入り、数瞬で出てくる。 

 

どこでもそれが可能になる。大抵、初めは 

 

気づかずにそれをしている。なぜなら、それ 

 

は自分の根幹に関わっているから、根幹

 

から自分を変えてしまう。  

 

瞑想で心の闇を恐れる人は多いのでは

 

ないか。そんなにすぐには(数年とかで)出て

 

こないから心配もないと思う。

 

それを見れるくらいなら、もうそれに相応

 

する素晴らしい世界・現象を見ている筈だ。

 

僕は最初吐き気がして3日は不快だったが、

 

死にはしない。闇はまだ近年のことだ。

 

深い瞑想を控えればいい。たぶん、そこまで 

 

行かずに、心のゴミ掃除の初期段階でただ 

 

気分が悪くなるくらいは出るかもしれない。 

 

自分の身から出たこれまでの社会事件で

 

犯した間違いや、誤解、争いで見たくなくても 

 

我慢しかない。見続ければそのうちゴミも 

 

出てこなくなる。引きずられずに傍観して

 

やり過ごすのが、コツだ。

 

 ― 以上。