さて、なんでもいいから書くように求められているが、書く決心

がつかない。変な話だ。誰が求めていると言うんだ。

それは進行役である僕自身だが、なんでもいいと、なにを選べば

いいのか、かえってわからなくなる。

(表題の「1と6」は、中間経過を10とすると、山勘で2から5を抜かして、

1と6を報告した、ということだが。)

心の発生も頓挫していると書いた(So-net ブログで)が、実際は進ん

 

でいて、どうまとめるかで、迷っている。すそ野がかなり広いので、

 

資料を読む気もなくす。その気になれば1日10冊も可能だろうが、

 

その気になれないのが、僕の気まぐれの悪い癖だ。今回は時間的に

 

中止に追い込まれて、闇からの回復を1か月近く待っている。頭はもう

 

抜けた。だが、集中して書くには体力・気力だけでなく、芯から健全に

 

ならなければ総合としての力を統一できない。

わかっていることを何でも書けばいいのなら楽だが、実際は対象者は

絞られる。病名もわからない患者に手当たり次第に薬を、または一つの

 

哲学なり、思想を薬として処方する医者はヤブ医者だろう。

心の発生とその対応は、ブッダ・孔子・ソクラテスが奇しくも、一定の

パターンで対応している。その後の歴史もそれぞれで同じような衰退を

 

たどっている。

それは自我の発達と知の展開で一致してもいる。これは道具から文明へと

進展した知の成長と同一のパターンであり、同じやり方だということ。

物質に対しては科学的にそれは成功裡に見えるが、結果は混乱している。

また、精神に関しては、演繹・分析の推理的思考でこれも混乱よりも

混沌としてしまっている。精神病の原因がどの時代の秀才も天才的な人でも

なにひとつわかっていない。向精神薬はある筋肉の部位をこわばらせたり、

 

人を朦朧とさせてしまう。統合失調症や知的障害者の世話でこの眼で見てきた。

 

貴重な経験だった。

では、何が悪かったか。なにも悪くない。僕らはよくなる、とはどういう

ことか、なにも統一した見解を持っていないし、持てない。そういう

ように僕らが体も心もその仕組みができているということを通してしか、

これからを考えることはできない。まずその認識に達することが優先で、

必須になる。

とりあえず、中途なことしか、今は言えない。申し訳ないが ・・・。

 

 

 

 

*とりあえず、精神の危機は脱出したことを報告。