9月28日(土)曇り

昨日は画期的な日でした。自民党総裁選にて、旧長老支配の自民党において、我が道を貫いた石破氏が総裁選に買ったのです。安倍政権時代からのあまりにも露骨な嘘だらけの政治に国民は危機感を募らせていましたが、石破氏の登場でその不安は少し和らぐでしょう。信じられる政治をかれによって、少しでも取り戻してほしい!国民の願いです。

 

 報道の中で石橋氏の奥さん(佳子さん)が紹介されてましたが、そのしぐさに、物言いに、ファンになってしまいました。地元では石橋氏以上に人気があるとか。ネット記事に馴れ初め等紹介記事がありましたので掲載しますね。

 

             【石破氏の奥さん佳子さん】

            【つねってみて現実でした・・】

               【この人に内助の功あり】

 

  

【石破氏は、自らの反省、自民党の反省を訴えた。対して高市氏は裏金問題に触れず・・麻生氏が味方に、で慢心したか?この差で勝負あり?国民からの批判を恐れた自民党議員は石橋氏にその救済を求めた結果か。】

 

     “ 素敵な石破佳子さんとのエピソード ”

 

新総理・石破茂が明かした「大学同級生の女性に猛烈アタックした日」の衝撃顛末

 

 三井銀行に入社して3年目、1981年9月16日に父・二朗が亡くなり、私の人生が大きく変わります。ここで私の配偶者についてご紹介しておきましょう。彼女は慶大の同級生で、旧姓で中村佳子といいます。大学に入学したての頃、彼女はD組、私はF組で同じドイツ語クラス。必修であった憲法や民法の授業は、語学専攻ごとに分かれていましたので共通の授業がやたらと多かった。一目見て、こんなきれいな女性がいるのかと本気で思いました。それはもう、感動に近いものがありました。確か、土曜日でした。この曜日だけは夕方、三田のキャンパスで講義があった。民法演習だったか、法学演習だったかは忘れましたけど、日吉から三田に行き、三田の授業が終わって教室から出た時、ちょうど彼女が三田の図書館の階段を、法律書を小脇に抱えて下りてきたんです。あの光景はおそらく一生忘れないでしょう。

 

 でもどうやって彼女と仲良くなったらいいのか。しょせん田舎育ちですから、とてもプレイボーイ風にはいきません。取り柄がない男、というのは自覚していましたから、せめて、勉強で少しでもアピールできればと思ったんですね。刑法が好きで自信があったから、試験問題の予想をしたわけです。多分刑法はこの問題が出るだろう、その答えはこれだ、というアンチョコみたいなペーパーを作って、希望者に頒布しました。彼女ももらってくれないかな、と思ったらもらってくれたんです。そして、その通りの問題が出て、私の書いたとおりに答案に記入した人は皆、A評価でした。そこでとにかく覚えてもらうことはできた。石破とかいう珍しい名字で、変わった奴だが、勉強はできるらしいとの評価を得たわけです。でもその後、試行錯誤を繰り返したのですがたいして仲良くもなれず、いよいよもう卒業というところまで来てしまいました。そこで、銀行に就職も決まっていたし、この際は当たって砕けろだ、と。卒業年次の79年3月に卒業謝恩会なるものがあり、その帰り道に意を決して、おずおずと「結婚を前提につきあってもらえませんでしょうか」と告白しました。しかしこの時は、ものの見事に断られてしまったのです。

 

 実は、三井銀行を選んだ理由の一つは彼女と結婚することを夢に描いたからでもありました。安定した就職先だったら、いいと思ってもらえるんじゃないかと。だから交際を断られて、何のために三井銀行に入ったんだろう、と思ったりしたわけです。それでもまあ、先述したような経緯で仕事が面白くなってきて続いていました。彼女とはその後、連絡も途絶えていたのですが、不思議なことにこれも父の死がきっかけで復活したのです。父の訃報が新聞にも出て、それを知った彼女が弔電を送ってくれたんですね。それを機に彼女に「電報くれてありがとう」と電話したことからまたやりとりをするようになりました。私も彼女も24歳か、25歳になっていた。彼女は前にも言ったとおり、丸紅に勤めていました。年頃ということで、結婚話もいろいろあったようですが、何となく気に入らずにお断りしていたらしい。そんな中、当時は私が政治家になるという話は全くなく、まあ三井銀行だし、いいかな、という感じだったのか、今回こそはなんとか交際までこぎつけたのです。

 

 でも、そこから先はドタバタでした。田中先生に会って政治家への道を決意、三井銀行をやめ、政治家予備軍として木曜クラブの事務局入りしたのが83年3月、そしてその年の9月22日に結婚式を挙げることになりました。私の人生の中で運命が急転換する2年間だったと言えます。嬉しかったのは、私が政治家になると言っても、約束違反だのなんだのと言わずに妻が許してくれたことでした。彼女の係累に政治家は全くいないし、政治の世界がどういうものであるかについてわかっているはずもないのですが、持ち前の才能で、まるで自然に馴染んだかのようでした。

 

 彼女は求められればスピーチはしますが、政治の話はしませんし、自分の配偶者を褒めることも決してしません。「皆さんのおかげで」と静かに感謝を伝えてくれる。それが多くの人の心に伝わるんです。すごい人ですよ。こんなに自分の奥さんを褒める人はいないかもしれませんが、これが私の本音です。・・選挙区では私より人気があると思います。選挙で候補者がいない時は、彼女を出したらどうか、という話が必ず出るくらいです。「そろそろ奥さんに出ていただきましょう。先生より票は取れますよ」とね。1984年9月、私が地元の鳥取県庁で次期衆院選への出馬表明をさせていただいたところから1年10ヵ月、田中角栄先生に言われたように県内くまなく挨拶をして回った、それもまた妻の全面的なサポートあってのものでした。その成果か、86年7月6日施行の衆参同日選挙で初当選を果たすことができました。獲得したのは5万6534票。5万4000軒歩いた結果でした。(9.27現代ビジネス)