米国人はこわがりか

 

永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)

         

  あるテレビ局のインタビューの中で、米国人の映画監督マイケル・ムーア氏が銃乱射事件の多発する状況などの質問に対して「米国人はこわがりなんだ」 と答えていた。

  現在、米国では学校や人が集まる場などで毎年のように銃乱射事件が起こり多数の死傷者を出し、また、(白人の)警官が銃器を持っていない(交通違反などをして呼び止めた)黒人に発砲して死亡させる事件などもたびたび発生する。これに対してムーア氏は「米国人はこわがりだ」と答えたのであろう。

  ムーア氏は政治的発言も多く物議を醸すことの多い人物であるが、「米国人はこわがりだ(こわいので銃で武装する)」という見解には私も同意したい。なぜかというと、米国映画、とくに、エイリアンものを見てそのように思うのである。

  その理由の第一は、米国映画に出てくるエイリアンは人間の目から見ると(一般的には)醜悪なものがほとんどである。  

 

  映画『エイリアン2』には主演女優としてシガニー・ウィーバーが出ていたが彼女と対決するエイリアンは一応人間型をしていたが、長い尾があり、頭も長く大きな口に金属的な長い鋭い歯が何本も並んでおり、やや人型を感じさせる分、(人間の私には)よけいに醜悪に感じられる姿であった。また、『インデペンデンス・デイ』に出てくるエイリアンも人類を上まわる武器を持つ生命体であるが、エイリアン2の宇宙人と同様に醜悪な容貌である。

  なぜ、米国映画に登場する宇宙人(エイリアン)は我々の目からみて醜悪につくられているのだろうか。なぜ、人類よりはるかに知的で容姿も(人間の目から)美しい宇宙人が登場しないのだろうか、と私は思うことがある。

  地球外生命体→よくわからないもの→恐ろしいもの→醜悪な容貌を持ち、人類を殺そうとして襲いかかるもの

という考えかもしれないが、

  地球外生命体→人類よりはるかに高い知能を持つもの→人類よりはるかに高い倫理観・道徳観を持つもの→容姿も人類よりはるかに優雅で美しいもの

という発想がなぜないのか、と思ってしまう。

  米国人、とくに、白人系米国人にとってエイリアン(宇宙人)は、恐ろしい存在、ぞっとするような醜悪な容姿の生物なのであろう。彼らは恐がり (coward, chicken heart) であるゆえに、エイリアンは醜悪な姿でなければならないのだろう。米映画『エイリアン』や『インディペンデンス・デイ』に登場する宇宙人は地球人よりは高度な科学技術力を持っているのに、かくも醜悪なのであろうか。

  が、日本人はどうだろうか。私は、日本人はそれほどエイリアン(宇宙人)を恐れていないし、米国人が想像する醜悪な容貌、容姿を連想してはいないとも考えている。私自身もとくに宇宙人を醜悪なものと考えないし、人間より知性も容姿も(人間が考えるレベルで)すぐれていてもいっこうにおかしくないと思っている。他の日本人が私と同じ考えとは言えないが、私のように考える日本人も希ではなくいるように思われる。

  日本には平安初期の作とされる『竹取物語(竹取の翁、かぐや姫)』(短編小説)がある。

かぐや姫は月に出自を有する絶世の美人で、地球の日本の竹取の翁のもとで育つ。彼女を連れ戻そうとする月人たち(宇宙人)がやって来る。かぐや姫を奪われまいとして天皇は軍隊で警備さすが、月人は兵士を殺さずに無抵抗の状態にして姫を月へと連れて帰る。

 

というストーリーである。月人のかぐや姫は“エイリアン(宇宙人)”であるが、人間の美女が足元にも及ばないような“美人”であり、姫を迎えにきた“月人集団(エイリアン、宇宙人)”も当時の日本軍が手出しをできないようにする“無殺人兵器”を持つ“高知性集団”である。つまり、日本人の『かぐや姫(竹取物語)』の作者は、「宇宙人の月人を醜悪な攻撃的生命体」とは考えていないのだ。

  日本人はロボットに対する“恐怖感”が少ないと言われている。外国のロボットものの映画をみるとロボットが人間を襲うようなストーリーが展開されることがよくあるが、日本人は“鉄腕アトム”の印象が強力なためか、“人に逆らうロボット”を意識することは少ない。この点で日本人は(米国人のように)ロボットに対する恐怖感もそれほど持っていない。

   この「日本人の新しいもの、未知のものに対してそれほど大きな恐怖感を持っていないという傾向」は長所でもあるし、短所にもなり得る。

   I OT (「物のインターネット」→「対物インターネット(永井訳)」)が一時さわがれたが、このごろはあまり言わなくなったようである。私は以前のブログで「人間が善意の固まりであればIOTを活用して外出中に家の風呂に給湯したり、暖房で部屋を暖めることもしてもよいが、ウイルスを仕込んでパソコンをダメにしたり、重要な個人情報を盗む連中もいるのに外から家の中の設備を制御することなど危険極まりない」 という趣旨のことを書いた。ハッカーが個人の家に侵入し電気やガスを自由に制御すれば家を「火の海」にすることができる。この技術を推進しようとする集団に“安全管理意識”や“国防意識”があるのだろうか。

  日本の周辺には「東京を火の海にする」とか「日本を10年以内に核攻撃する」というような脅しの言葉を吐く国があるのに、政府は国民に知らせようとせず、マスコミもいち早くその情報を手に入れる立場にありながら国民に伝えずおきながら、ITOは騒ぎ立てて(その危険性には言及せず)導入をあおっていたが現在はどのようになっているのか。IOT(対物インターネット)は現在の人間のレベルでは私には危険極まりないものに思われる。

  少し話が脇道にそれたが、私が言いたいことは、日本人は未知なものに恐怖感を示さないことも多いのであるが、“悪意のある人間”や、“悪意のある国”からの日本と日本人に対する攻撃は常に念頭に置いてもの事の善し悪しを決定する必要があるということである。企業が利益のみを第一に追求し、新しい技術を開発、商品化するとき、常に悪意のある個人、集団の悪用を考慮する必要がある。

  話をもとにもどそう。米国人はこわがりである。彼らは、エイリアン(宇宙人)は醜悪で人間を襲い殺そうとする存在と考える。したがって、排除・殲滅しようとする。米国人の白人の中には全てではないが、黒人は“得体の知れない存在”であり、恐ろしい存在であると考えてしまう人間が数多くいて、黒人の少しの動きにも“攻撃と勘違いをし”過剰に反応して(たとえば、交通違反の車の黒人運転手の免許証を取り出そうとする動きなど)拳銃で撃ち殺すようなことが希でなく起こる(ただ、米国の警官は制圧しようとするとき違反者や犯罪者から拳銃で撃たれて死亡することも多発しており、銃社会の中で警官が過剰反応してしまう状況があることは確かである)。

  1977年9月にフランスのパリを出発した日航機がバングラデシュのダッカ空港に強制着陸させられる「ダッカ日航機乗っ取り事件」が起こった。この事件の後もいくつかの日本人が巻き込まれるハイジャック事件が起こっているが、私の記憶に誤りがなければ当時の外電(外国人記者による報道)等が事件に巻き込まれた日本人乗客の“冷静さ”を伝えることが多かった。私はこれ見て、外国人はハイジャックなどのとき“泣き叫んだりパニック状態になったりするのか”と思ったことがある。

  日本は世界有数の地震多発国であり、台風も毎年いくつか日本を襲い被害をもたらす。1995年の阪神大震災、2011年の東日本大震災の時も恐ろしい大被害にもかかわらず、震災後にパニックは起こらず、人々は整然と並び搬送された食料や水を受け取る姿が世界の各国でメディアを通じて紹介・放映され、驚きとともに日本人のその態度を称賛していた。これは、私たち日本人には当然のことであるが、外国の被災地においては救援の食料をめぐって被災住民の間で奪い合いが起こったり、乱闘や暴動が起こったりすることがある。

  災害時の日本人の整然とした行動は、日本人が地震等の災害に慣れていることもあるが、政府、自治体等のいわゆる“上”からの支援、救援を信頼していることにも大いに関係があるのではないだろうか。古墳時代とされる仁徳天皇の時代(5世紀前半)に民が疲弊しているのを見て仁徳天皇は三年間税を免除したと記述されている。6世紀末、聖徳太子は四天王寺に四箇院(敬田院、施薬院、療病院、悲田院)を設け、仏教的慈善の救済活動を行なったとされており、8世紀の奈良時代には法律により政府の公的な救済も行われるようになった。奈良の大仏の建立で有名な聖武天皇の皇后の光明皇后は仏教を篤信し730年に施薬院と秘田院を設け、貧しい人々に対して施薬、施浴をし、癩患者の救済も行なった。このように日本は古代から為政者が人民を救済するという姿勢が貫かれていた(もちろん、被災住民同士の横の助け合いは当然行われていたし、火事場泥棒をするような者はいなかったと思われる)。平安、鎌倉から江戸時代に至るまで災害時の為政者の姿勢に変化はなかった。

  日本人は災害時には基本的に古墳時代、大和時代から政府の(上の)救済を信じる気持ちがあり、それが災害時にも争ったりしないことにつながる一つの原因と考えられる。つまり、日本人は災害時、緊急時にもあわてず、恐がらず、対処する能力が高いのだ。

  そして、日本人の怖れない心、未知のものを受け入れる心はDNAの中にも潜んでいるように私は思う。日本人は最近のDNAによる旧人類の調査によってネアンデルタール人のDNAを諸外国人と較べてもっとも多く有していることがわかった。現世人類によって滅ぼされたとされていたネアンデルタール人は現世人類と交わりその遺伝子を残していたのである。

  日本人が世界のどこでネアンデルタール人と交わりその遺伝子を獲得したかは現段階ではよくわかっていない。ユーラシア大陸のどこかで交わり日本列島に来たのか、あるいは、最果ての日本列島で交流したのか。いずれにせよ、戦争(戦い)の形跡を残さない縄文人の遺跡を勘案すると、縄文人の先祖は争うことなくネアンデルタール人を受け入れて交わったように私には思われる。つまり、未知のものを恐怖心から排除しないという縄文人の性質が現在の日本人の中にもっとも多くネアンデルタール人の遺伝子を残したのだと私には思われるのだ。

  米国人は怖がりである。日本人はそうではない (注1)。それは遺伝子的にも言えるのかもしれない。      (2019年3月29日記)

 

 

(注1)  「こわがり」であることは直接的には「ケンカが弱い」とか「腕力がない」ということを意味しない。この点、誤解のないようにお願いしたい。

  「未知のものを怖れない」心は“新発見”を怖れないことにつながる。日本人に比較的ノーベル賞の受賞者が多い理由の一つに「日本人の未知のものを怖れない心」があると私は思う。“怖れる心”があれば“新しいもの”、“未知のもの”を見つけていてもそのように思う心にブレーキをかけてしまい、“新発見”を自ら否定することが起こり得るのだ。(3月31日追記)