岡山市街地の南部にある岡山大学医学部や県立岡山病院(現岡山県精神科医療センター)の周辺は、殿下渡領〈でんかわたりりょう〉として摂関家に受け継がれた鹿田〈しかた、かだ〉荘の推定地(鹿田遺跡)です。東側の岡山大学医学部では昭和58年(1983)から、西側の県立岡山病院では平成13年(2001)から発掘調査が行なわれ、その様子が明らかとなってきました。

 鹿田遺跡では多くの井戸が見つかっていますが、県立岡山病院ではスリバチ状の穴に井戸枠を組んだ浅い井戸が多いのに対し、岡山大学医学部では円筒状に掘り込んだ深い井戸が目立ちます。これは時期の差ではなく地質の違いに原因があるようです。砂層を地盤とする県立岡山病院では地下水位が高いため浅い穴に井戸枠を組めば事足りたのでしょうが、粘土層を地盤とする岡山大学医学部では地下水位が低いために深く掘る必要があったのです。このように安定した地盤の岡山大学医学部では弥生時代から集落が営まれましたが、軟弱な地盤の県立岡山病院が生活の場として利用されるのは平安時代(10~11世紀)のことです。この時期の県立岡山病院では土師器〈はじき〉や黒色土器といった一般的な食器に加え、緑釉〈りょくゆう〉陶器や灰釉〈かいゆう〉陶器といった高級食器が見つかっていて、荘園の管理や運営に携わった人々の居宅があったことをうかがわせます。一方、同じ頃の岡山大学医学部では遺構がほとんど見つかっておらず、県立岡山病院へ集落が移動した可能性があります。

 その理由の一つとして考えられるのが、寛和2年(986)に起こったある事件です。鹿田荘の地子米をめぐって荘官とトラブルになった備前国司の藤原理兼〈ふじわらのまさかね〉が、荘園に乱入して掠奪したうえ300軒もの家屋敷を打ち壊し荘官の屋敷に火を放ったのです。藤原理兼は太政大臣の藤原頼忠(藤原公任の父)から処罰を言い渡されますが、直後に摂政となった藤原兼家(藤原道長の父)のもとで太皇太后宮亮を務めていて、この事件は頼忠と兼家による勢力争いの一環であったとも考えられます。平安貴族たちの政争が遺跡の盛衰に関わっていたのかと思うと、NHKの大河ドラマ「光る君へ」が描く人間模様にも興味がわきます。

 

県立岡山病院で見つかった平安時代の建物

 

県立岡山病院で発掘中の平安時代の井戸

 

県立岡山病院から出土した平安時代の土器・陶器