小高い丘の上にある赤磐市土井遺跡は、事前の調査で弥生時代の集落が確認されていたものの(「斜面の住まい」をご覧ください)、西向きの急な斜面が大半を占めることから遺構の密度は低いものと考えられました。そこで、試し掘りを行いながら調査対象地を広げていったところ、古墳時代(6世紀)の埴輪窯が見つかったのです。すでに埴輪がまとまって出土する場所は確認していましたが(「置き去りにされた盾持ち人」をご覧ください)、そのすぐそばに窯跡があろうとは思いもかけないことでした。

 並んで見つかった2つの窯跡は、全長6.7m、幅1.3mほどで、斜面を溝状に掘り込んだ上にアーチ形の天井を掛けていたようです。窯の中には円筒埴輪や盾形埴輪が残っていましたが、驚いたことに陶棺の一部も見つかったのです。陶棺の製作に埴輪のつくり手がかかわっていた可能性は早くから指摘されていましたが、実際に確かめられたのはこれが初めてです。また、その北側では奈良時代(8世紀)の瓦窯も見つかっていて、焼き物づくりに適した場所であったに違いありません。さらにこの遺跡では、鉄を熱して加工する鍛冶〈かじ〉作業の廃棄物(鉄滓)や、鍛冶と関わりの深い鉄鐸〈てつたく〉という祀りの道具(「クロガネの鈴」をご覧ください)も出土しており、当時の先進技術を駆使したモノづくりが行われていたようです。

 奈良時代、この一帯は赤坂郡(のちに藤野郡、和気郡、磐梨郡)珂磨(かま)郷に属していて、丘の麓を東西に走る古代山陽道には珂磨駅も置かれました。間壁葭子さんが指摘するように、高温の火熱を使ったモノづくりが「かま(窯)」の地で行われたのも、あながち偶然ではないのかもしれません。

 

土井遺跡の埴輪窯(岡山県教育委員会2005「土井遺跡ほか」から)

 

埴輪窯から見つかった陶棺(岡山県教育委員会2005「土井遺跡ほか」から)

 

墓に副葬されていた鉄鐸(岡山県教育委員会2005「土井遺跡ほか」から)