松林の中にひっそりと居並ぶ苔むした礎石〈そせき〉、備中国分尼寺跡のこうした風景は吉備路風土記の丘の見どころの一つとなっています。しかし、五重塔がそびえる備中国分寺や、巨大な石室が口を開けるこうもり塚古墳からやや離れていることもあって訪れる人も少ないのが現状です。そこで、備中国分尼寺跡の全貌を明らかにしてその魅力を全国に発信しようと、大正11年(1922)に国の史跡に指定されて以来はじめてとなる発掘調査が行なわれました。

 国分寺(金光明四天王護国の寺)と国分尼寺(法華滅罪の寺)は、奈良時代の聖武天皇によって諸国に建立されましたが、平安時代には国家の支援を失って衰えました。廃絶した備中国分尼寺の跡地は山林となったためか、寺の周りには崩れた土塀〈どべい〉の高まりが、堂舎の跡には柱を据えた礎石がそのまま残されました。このうち、仏像を安置した金堂〈こんどう〉の礎石には、円柱を据える柱座〈はしらざ〉ばかりでなく、地覆座〈じふくざ〉という柱を繋ぐ横木の台座までつくり出されていますが、このように精巧な礎石は地方寺院ではたいへん珍しく、さぞかし壮麗な堂舎が立ち並んでいたものと思われました。

 ところが、このたびの発掘調査で明らかになった備中国分尼寺の姿は実に意外なものでした。金堂の前に立つ中門〈ちゅうもん〉は礎石建物ではなく地面に穴を掘って柱を据えた掘立柱建物〈ほったてばしらたてもの〉であり、その左右に取りついていたのは回廊〈かいろう〉の建物ではなく土塀だというのです。このように簡素なつくりとなったのは、いったい何故なのでしょうか。打ち続く飢饉や疫病に疲弊した地方の国々において、国分二寺の建立はたいへんな負担であったに違いありません。とりわけ国分尼寺は建設が中々はかどらず、既存の建物を転用することもあったようです。備中国分尼寺の場合も財政的な問題から、金堂の建設を始めた後になってこのようなつくりに変更されたのかもしれません。

 今年度の調査はひとまず終わりましたが、来年度はいよいよ金堂の調査が行なわれます。備中国分尼寺跡からますます目が離せません。

 

備中国分尼寺跡の解説板

 

寺域を囲む崩れた土塀の高まり

 

金堂跡に並ぶ礎石

 

直角方向に地覆座がつく金堂隅の礎石

 

発掘された講堂跡の礎石

 

中門跡で見つかった柱穴