「井原〈いばら〉市で銅鐸が見つかったから調査をしてきてくれ」。そんな連絡を受けたのは、赤磐〈あかいわ〉市の朱千駄〈しゅせんだ〉古墳を調査している最中でした。聞けば、銅鐸発見者の居住地である広島県福山市から出土地の岡山県井原市へ一報が入ったものの、井原市は文化財専門職員を配置していなかったことから岡山県へ対応の依頼がなされたとのこと。

 数日後に朱千駄古墳の調査を終えて井原市を訪れると、そこで見せられたのは扁平な鈕〈ちゅう〉という吊り手を持ち、斜格子文〈しゃこうしもん〉の帯で6つに区画した6区袈裟襷文〈けさだすきもん〉を飾る銅鐸でした。高さは44㎝あって、前後にひしゃげた銅鐸の片側は大きく壊れています。次いで案内されたのは標高100mの丘の上(字明見〈みょうけん〉)で、南東へ緩やかに傾斜する畑地となっていました。見つかった場所には銅鐸を取り上げたあとが残っており、銅鐸が埋まっていた様子を復元できるようです。そこで、そのあたりの耕作土を取り除くとすぐに銅鐸を埋めた穴が見つかりました。風化した花崗岩〈かこうがん〉の地山を掘り込んだ穴は長さ55㎝、幅35㎝の楕円形をしていて、深さは35㎝あります。銅鐸はこの穴の中に、吊り手を斜面の上方に向け、壊れた部分を上にして横たわっていたことが確認できました。これとよく似た状況は岡山市高塚〈たかつか〉遺跡や総社市神明〈しんめい〉遺跡でも認められ、銅鐸の埋め方には一定の決まりがあったことが分かります。また、傷んでいた銅鐸の修理を行う過程で、その内外に水銀朱を塗布した痕跡が見つかりました。赤く塗られた銅鐸は岡山市兼基〈かねもと〉でも見つかっていますが、その形は明見銅鐸とよく似ていて、あるいは同じ場所で製作、彩色されたものが吉備へもたらされたとも考えられます。いずれにしても「赤い銅鐸」は未だ確認された例が少なく、どのような意図で彩色されたのか大いに気になるところです。

 ところで、この場所から銅鐸が見つかったのはこれが初めてではありませんでした。この丘の頂き(字寺屋敷)では寛政9年(1797)に、谷を隔てた北東の丘の上(字猿の森〈さわのもり〉)では昭和20年(1945)にそれぞれ銅鐸が掘り出されているのです。高さ43㎝の寺屋敷銅鐸は6区袈裟襷文、高さ42㎝の猿の森銅鐸は12区袈裟襷文という違いはありますが、いずれも扁平な吊り手を備えていて、明見銅鐸と同じ頃(約2000年前)につくられたものと思われます。この3つの銅鐸出土地から見下ろせる平地は、旧山陽道が走る小田川流域と瀬戸内海とを結ぶ道筋にあたっていて、銅鐸という祭器を納めるのにふさわしい場所と考えられたのかもしれません。

 明見銅鐸の発見を契機に、井原市では文化財専門職員が配置され、文化財を保存・公開する施設として古代まほろば館も整備されました。現在、井原市の文化財に指定された明見銅鐸は、古代まほろば館の「顔」として猿の森銅鐸の複製品とともに展示室の一画を飾っています。

 

明見銅鐸の出土地(ブルーシートの箇所)

 

発掘調査の様子

 

 

再現した明見銅鐸の埋納状況

 

銅鐸を埋めた穴の土層断面(銅鐸の端が残っている)

 

古代まほろば館に展示された明見銅鐸

 

寺屋敷銅鐸と猿の森銅鐸(近藤義郎編1992「吉備の考古学的研究(上)」から)

 

 

明見銅鐸の埋納を再現した古代まほろば館のジオラマ