古墳時代後期(6世紀)になると、吉備でも畿内にならって家形石棺がつくられるようになります。岡山県南西部の浪形石〈なみがたいし〉という石灰岩で製作された家形石棺はこれまでに5つ知られていますが、このうち倉敷市王墓山〈おうぼさん〉古墳(径25mの円墳)、総社市こうもり塚古墳(全長96mの前方後円墳)、同江崎古墳(全長45mの前方後円墳)、同金子石塔塚〈かなごせきとうづか〉古墳(径26mの円墳)の4つは備中南東部にまとまっています。

 この4つの家形石棺は、いずれも蓋〈ふた〉が寄棟〈よせむね〉の屋根の形をしていて、斜面に断面長方形の突起をつくりだしています。しかし、こうもり塚古墳と江崎古墳の石棺は蓋に6つの突起をつくり出した長さ2.4mの大型で刳り抜き式、王墓山古墳と金子石塔塚古墳の石棺は蓋に4つの突起をつくり出した長さ2.1mの小型で組み合せ式と刳り抜き式といった違いがありますが、これは前者が前方後円墳、後者が円墳と古墳の形や大きさに対応しているようです。こうしたつくり分けは畿内でも認められ、家形石棺は葬られた首長の身分を表す役割を果たしていたものと思われます。こうもり塚古墳に追葬された吉備最古の陶棺も、あるいは石棺に次ぐ格式を表すものとして畿内から導入されたのかもしれません。

 6世紀後半に築造されたこうもり塚古墳と王墓山古墳の副葬品からは両者の密接な関係がうかがわれ、後者が前者を補佐する立場にあったものと思われますが、同様の関係は6世紀末に築造された江崎古墳と金子石塔塚古墳との間でも想定できます。浪形石の家形石棺に表された身分秩序は、おそらく王墓山古墳の首長の死を契機にこうもり塚古墳の首長によって創出され、次世代の江崎古墳や金子石塔塚古墳の首長へと引き継がれたのでしょう。このように浪形石の家形石棺は、古墳時代後期に吉備の中枢を担った勢力を考える上でたいそう重要な手掛かりなのです。

 

 

1 こうもり塚古墳  2 江崎古墳  4 王墓山古墳  5 金子石塔塚古墳

(亀山行雄・尾上元規2008「吉備の飛鳥古墳」から)

 

 

こうもり塚古墳の家形石棺

 

江崎古墳の家形石棺

 

王墓山古墳の家形石棺

 

金子石塔塚古墳の家形石棺(総社市1987「総社市史 考古資料編」から)

 

こうもり塚古墳の陶棺(蓋)